氷解

日々の思考を垂れ流すゴミ箱

アクダマドライブ感想【2020秋アニメ】

FODで期間限定で無料公開していたので、2020秋アニメランキングで特に人気が高く気になっていたアクダマドライブを見ました。TV含めFOD以外で一切公開していないのがもったいない。後々Amazonなどにも追加されていくらしいが、有料だし。

 

大雑把な感想としては、誰が正義で誰が悪か、明確な答えを一切提示しない終わり方なのに見終わった後の満足感高くてとても良かった。誰もが自分なりの正義という名のエゴを持っていて、それがむき出しでぶつかり合うのがアツかったです。命がけの戦いということで人が結構死ぬしグロい描写もあるんだけど、それを含め12話イッキ見して5時間くらい(?)の映画を見たような気持ちにさせてくれる。見終わった後に劇場の明かりがゆっくりと付いて、周りの観客が徐々に立ち上がって話し始め、現実にフッと引き戻されるあの感覚がした。いいね。

 

展開としては、量子コンピュータのあたりで「また世界観広げすぎて唐突なSFゴリ押し展開で冷める感じかなぁ」と思ったんだけど、その辺をサッと畳んで最後は詐欺師達の戦いっていうミクロな展開に引き戻した所が綺麗で、流石見せ方分かってるなぁと感じた。

この手のSFモノって最後に伏線回収しなきゃいけないけど、世界観の説明に固執すると視聴者としてはそれを把握するのに必死で、クライマックスだと言うのに物語にいまいち入り込めないままなんだかよく分からず終わる、というのが結構お決まりのあるあるパターンなんだよね。逆にそれを嫌って先延ばしにし続けて、風呂敷だけ広がってなにも畳まずに終わるって作品も結構あって、これもあるあるパターン。これはどちらも惜しくて、視聴者的には世界観の説明はしてほしいけどその後に一旦落ち着いて感情移入できるような展開が欲しい。伏線回収しつつシラけさせずのバランスが難しいよね。それをこの作品はとても上手くやってくれたなと言う感じで、その点も満足感の高さを後押ししているんだと思う。

関係ないけど今期はもう一作品、量子コンピュータをテーマにした作品があったね。まだ最初の方しか見てないんだけど今の所は見るアニメ予定リスト二軍くらいのイメージで考えてる。

 

個人的にはストーリー構成とキャラ原案がダンガンロンパを手がけてた方達というのもあって、ダンロンぽい要素が散りばめられてるところもワクワクした。ダンロンは1からV3までゲームで全部プレイしたし、アニメも見たから結構思い入れ強くて、そこも面白かった理由かな。
アクダマドライブのOPはアクダマ達が死んでいる姿が最後の方にラッシュでバーっと出るんだけど、この辺はアニメのダンロン3未来編のOPを意識してるのかなと思った。あっちはミスリードだったけどこっちはそのまんまだった違いはあったけど笑

あと1話と12話でアクダマの紹介シーンでアメコミチックな描かれ方をしていたところもダンロンの雰囲気出てたね。もともとのキャラデザがコミカル寄りだから上手くマッチしてた。

 

そんなところかな。もっと詳しい感想書けたらいいんだけどあんま時間無くて記事も数ヶ月に一本とかで、そんな調子だから記事ごとにですます調だったりである調だったり口語調だったりでごちゃごちゃになってる。

ではまた~。

 

アクダマドライブ|KBS京都

 

 

フェミニスト()はなぜ嫌われているのか

お久しぶりです。

今日はフェミニスト()がなぜ世間にここまで嫌われているのか、どう活動すべきなのかについて私見を述べようと思っている。まあブログなんて私見しかないんだけども笑

 

1,フェミニスト()はなんでこんな嫌われているのか

結論から言うと、フェミニスト()が世間で嫌われている最大の原因は生産的な活動を行っていないからだと思っている。本来あるべき姿のフェミニストと区別するために後ろに括弧を付けてみた。
 
例えばLGBTに配慮して身体的性別に関わらず結婚やパートナーシップを認めて欲しいとか、結婚時の選択的別姓を認めて欲しいとかの活動は、賛否両論あれどとりあえず価値ある意見として世間で議論の土俵に乗ることができる。
しかし最近話題になったフェミニスト()の活動といえばファミリーマートの「お母さん食堂」という名前をやめろ、献血自衛隊募集広告・街頭広告で性的側面を強調した表現をやめろ、少年ジャンプの編集者の素質として「少年の心」が分からなければいけないという発言を撤回しろ、など枚挙に暇がないが、これらは全て誰かが行う活動を否定し潰そうとするだけの活動に他ならない。上記のような表現が採用されている背景には、多くの人々に伝わりやすく共有しやすい価値観だったり、広告としての集客性だったり、商品の方向性に対する信念だったり、それぞれそれなりの理由があるはずであり、差別主義の思想表現のみを理由としているものはそうそうないだろう。
それなのに単に気に入らないからといって背景事情を全部無視して署名活動やら抗議のメール・電話が殺到するのは企業からしてみればたまったものではない。何かを潰そうとするなら相応の代案を提示したり発生しうる悪影響の合理的説明を試みたりするのが議論の土俵に立つためには不可欠であり、それをせずに個人の意見を押し付けるのでは母親にワガママを言う子供と一緒である。おっと、これも「子育ては母親だけがするものという旧時代的な差別意識を前提とした表現であり撤回すべき」と叩かれてしまうだろうか?
 
結論として、本来あるべきフェミニストの活動とは生産的なものであるべきということだ。世の中の出る杭を自分の物差しで決めて、片っ端から叩いて回るのは生産的ではない。出る杭が本当に出ているのか、叩く必要性があるのか、他の杭を伸ばす解決策ではダメなのか、一つ一つ考えた上で理性的な活動を積み重ねていくべきだと思っている。
 

2、活動家の意見

私はYoutubeでAbemaTVのチャンネルの動画をよく見るのだが、こんな特集があった。
 
ここでは小島慶子氏が議論の最初に以下のような前提を述べている。
「この中に性別によって人が差別されても構わないと考えている人は手を挙げてください。いない?であれば、皆さんはフェミニストです。」
私はまずこの時点で「ん?」と思った。
Wikipediaによれば、フェミニズムとは『性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想・運動』のことを言うらしい。この定義からすれば確かにみんながフェミニストだと言えるが、それではあまりフェミニストという用語を用いる実益がないのではないかと思うし、既に凝り固まってしまっている「フェミニスト=害悪」のイメージを払拭しない限り、このような言い方をされると「消極的賛成の層もまとめて取り込もうとしている」「フェミニスト()の活動に反対しにくい状況を作り出そうとしている」圧を感じるのは無理もないことだろう。
 
とにかく、こうした動画から分かることとしては、フェミニストの正確な定義・活動を知れば知るほど世間にはびこるフェミニスト()は真に認められるべきフェミニストではなくただの男性嫌悪者なのではないかということだ。まず男性嫌悪者がフェミニストの皮を被って珍妙な意見を述べている現状を把握し、彼ら・彼女らをフェミニストと明確に切り離して考えられるようにならなければ、フェミニズムに関する論争は進展しないのだろうなと思っている。
 
今日はこんな感じで。

人生の選択

人生は選択の連続である。

今日の昼飯は何にしようか、週末はどこへ出かけようか、といった日々の小さな選択から、進路はどうしようか、付き合う相手はどんな人がいいか、どんな家を買おうか、といった人生を左右する重大な選択まで様々である。

 

 読者の方々は選択肢の中からこれだというものを選択するとき、どのように決めるだろうか。私は優柔不断を理詰めで克服するような性格の持ち主なので、日々の大体の選択は消去法によって行われる。

昼飯は外食するのもだるいし、家で済ませよう、料理は面倒だし残り物もないからインスタントかな、カップラーメンていう気分でもないし…。そうだ、冷凍食品がいくつかあったな、どれどれ…お、これはあんま食べたことないやつだなといった具合である。

 

 消去法は良いことか悪いことか?答えは「どちらでもある」。消去法の良い所はすべての選択肢をじっくり吟味し比較し、今の自分にとって最も合理的な選択肢をつかみ取ることができる可能性が高い。実に私好みである。

 しかし消去法の良い所は、そっくりそのまま悪い所にもなり得る。すべての選択肢を考慮するのはときに膨大な時間を要する。また、すべての選択肢を詳細に比較するのはときに優劣のつけがたい、あるいは同じ次元で比較できない要素を無理やり順位付けしようとする嫌いがある。そして最も悪い所は、それだけの苦労をして選択したものが自分にとって好ましいものである保証はなく、ただ「好ましくない要素が少ない」だけということである。

 

 そして消去法がふさわしくない場面というのは必ずあって、それらは人生を左右する重大な選択であればあるほど多いように感じる。あなたは無数の進学校の中から自分の進学先を選択するとき、すべての学校を吟味するだろうか?就職するとき、すべての業界を検討するだろうか?結婚相手を探すとき、地球上のすべての異性を比較するだろうか?答えはNOである。確かに無数の選択肢からある程度絞り込みをかける際に、まず消去法でふるいにかけることはあるだろうが、残った選択肢の中からこれというものを選ぶときには、欠点を比べるのではなく好ましい所を見つけ出す方針に切り替えるべきだ。

 なぜなら人生を左右する重大な選択というのは今日明日でその効果を実感するものではなく、数年あるいは数十年にわたって付き合っていくものだからである。その長い月日のうちに、自分の選択を悔やむ日が来るかもしれない。その時に、自分の選択肢に単に悪い所が少ないというのでは後悔はぬぐえない。多少悪い所があったとしてもそれを上回る良い所があると積極的にとらえられるような選択をした方が絶対にいいと私は考える。

 

だから私は、人生を左右する重大な選択においては優柔不断にならず、直観で選ぶことも大切だということを忘れないでおきたいと思う。

 

自己分析とは何か

 

 もう4年以上前のツイートだが、知り合いのRT伝手でこんなものを発見した。

 

 

軽く調べたところTogetterにもまとまるほどバズったツイートらしく、個人的にも風呂場でボケーっと考えていたら興味が湧いたので書き記しておこうと思う。

 

まず、なぜ哲学女子曰く自己分析は不可能なのか?それは分析する自己を分析する自己が無限に発生してしまい完全に客観的な評価がわからないからだと思う(哲学には疎いので、もし違っていたら哲学の造詣が深い諸氏が指摘してくれると学が深まって大変ありがたいと思う)。

 しかし、結論としては自己に対する完全に客観的な評価というものは本来分かり得ないが完全に客観的な評価は自己分析とイコールではないし、就活では分かる必要もない。故に自己分析は可能である(面接官のウケを考えて捻じ曲げた自己分析は当然可能であるわけだが、そうではない)。

 

∵まず分かり得ないという部分について。

 この哲学女子は神の視点から見た自分の正確な評価というものが存在していることを前提に話をしている。そしてそれが本当に存在するかは置いておくとして、人間がその評価を知ることは不可能なのである。人間の内心は物理学的事象と異なり変化し続ける抽象的なものだからである。また、人間の内心を他の存在が知る術は今のところないからである。

 だから、ここでいう完全に客観的な評価に最も近い答えを出せるのは他でもない自分以外いないのである(仮に24時間365日、常にその人物を客観的に観察し続ける人物がいたとしても、その人物が認知しうるのは外面に現れた行動や発言から推認された内心にすぎないから)。

 したがって、”神”が認識する完全に客観的な評価は”自己”が行う自己分析とはイコールではないのである。

 

∵次に必要がないという部分について。

 哲学女子の論を借りれば自己分析をするとき、分析する自己と分析される自己が分裂し、分析する自己を分析する自己を分析できない現象に陥るから自己分析はできないとのことである(少なくとも私はそのように理解した)。

 何を言っているか分からないと思うので、具体例を挙げよう。「私は興味があること以外は我慢強く続けることができない飽きっぽい人間だ」という自己分析をしたとする。これは分析された自己である。これに対し「私が興味があることとは何か?」「我慢強く続けられないのは本当に飽きっぽいからなのか?」「この自己分析は自分の長所なのか、短所なのか?」といった意見を持つことは更なる深い自己分析にすぎず、分析した自己を分析しているわけではない。分析した自己を分析することというのは「自己分析した内容が真であるか偽であるか」自体を疑うことを指す。つまり「私は自分で自分を飽きっぽい人間だと分析しているが、それは私のより本質的な部分が無意識的に自分をそう思わせているにすぎないのではないか?」という分析である。

 これは端的に言えば分からないということになる。仮に分かるとすればそれは最初の自己分析が間違っていたのであり、自分で「これこそが自分の客観的評価だ」と思ったのであればそれが自分の中で最も客観的な自己内面分析であり、ひいては世界で最も客観的な自己内面分析であると結論付けるしかないからである。それが偽である可能性はあるが、偽であることを常に疑い続けていては永遠に自己分析は完結しない。

 自己分析は”自己”がこれで完結だと思ったところで完結させていいのである。なぜならそれこそが自己分析だからである。そしてその自己分析は就活で求められている自己分析と同義であろう。

 

 Togetterには『自己分析をすることは自分の中に強制的に自分を観測する別の存在を発生させる作業であり、それこそが他社と共同して生活する社会に求められている作業である』といった趣旨のツイートが引用されていた。これは私も賛同する。社会に出れば分析される自己役を自分が務め、分析する自己役を他者が務めるのだから、自己分析において分析する自己を分析することができないというのは社会でいえば他者の内心を分析することに等しく、それは不可能だからである。

 しかし他者の内心を自分なりに想像することは社会において必要不可欠であり、自分が他者からどう見られているか想像するプロセスが就活の自己分析において求められていることなのではないだろうか。

 

 

 

夜中に一気に勢いで書き上げたので、矛盾点や説明がへたくそな部分は挙げようとすれば枚挙にいとまがないと思われるが、前回のブログでも書いた通り、まずは完成させることが最重要であるから、今日はここらへんで終わっておこうと思う。

自分の中での完成は完全に客観的な完成に程遠いが、その繰り返しが自分の中での完成のレベルを高めるプロセスであると信じて。

今回も駄文を読んでくださった方がもしいれば、最大級の感謝を込めて。

ではまた次回。

 

 

 

 

「絶対」を定義できるか?

お久しぶりです、ヒグラシです。

 

なぜこんな長い間投稿していなかったかというと、自分はいきなり完璧な記事を完成させようとしてしまう癖があるんですね。なので、この半年くらい?の間も実は何個か記事を書いてたんですけど、完成する前に「この話するならあれも書かないと、あ、こういう解釈もあるな…そもそもこんなこと記事にする必要あるのか?」となってしまい、ことごとく志半ばに筆を折ってしまっていたわけです。使い方あってるかな。

しかし、かの世界的に有名なSNSであるFacebookのCEO、マークザッカーバーグはこう言いました。

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完成しなければそれは無価値であるが、完成さえしていればそれが不十分であっても0より価値あるはずだということで、今回こそはなんか記事を完成させようと思ったわけであります。

 

というわけで本題。最近Youtubeをよく見てまして。その中で『予備校のノリで学ぶ「大学の数学・物理」』というチャンネルの動画にたどり着いて、「中学数学からはじめる相対性理論」という2時間近くある動画を見ました。別に僕は理系じゃないですし、相対性理論に興味があるわけでも、アインシュタインに義理があるわけでもないですがたまたま最後まで見てしまったんですね。

以下の動画です。

 

 

それで、相対性理論について学ぶ中で、「光の速度はどんな速さで動いている者の視点から見ても常に同じ30万km/秒である」という光速度不変の原理を始めとして我々の直感に反するような事実がたくさん出てきてくるわけです。ほんとかよ?と思うかもしれませんが、今までそれに対する反証がなされていないので、現時点では事実と考えるほかないそうです。僕はそれを見て、今常識だと思っていることはすべて”現時点”での”絶対”であって、神の視点から見ても正しい、”永遠”の”絶対”が保障されているわけではないんだなと思いました。

じゃあ絶対という言葉は何をもって絶対なんだ?人間は他の生き物より高度な発展をとげて、今や地球を飛び出し宇宙まで進出しているというのに、暫定的に「正しい」と真偽不明で受け入れられて、置いてけぼりにされている無数の事実があるんじゃないか?それを前提に我々の生活は成り立っているのか?だとしたら何か一つ今後大きなほころびが見つかっただけで積み上げてきたものが崩れることがあるんじゃないかという不安を感じるのです。考えすぎでしょうか?

 

この辺まで考えたあたりで、僕は絶対なんてこの世にはなくて、すべては相対的なものなのでは?という発想に至りました。比較対象もなくただその一つだけを見て絶対に正しいと言い切れるのは神だけであって、我々の使う用語としての「絶対」は「絶対」じゃない。

 

なので、タイトルに従い我々が使う「絶対」という言葉を定義するとすれば、僕は「”相対”という言葉より”相対”的に確からしいこと」だと思います。

「絶対行く」と約束したのに寝坊したことが何度もある僕的にはこの定義はとてもしっくりきてます。お気に入りです。その言葉を言ったときは多分いつもより乗り気だったんでしょうね。でも前日に夜更かしをしたり、後からやっぱりめんどくさくなったりするんですよね。何の話だっけ。

 

相対音感絶対音感という言葉があります。前者は二つの音を聴いたときにどちらがどれくらい高いか分かることをいい、後者は一音を聴いただけでそれがどの音か分かるそうです。しかし、音感はいずれにせよ自分の記憶の中の音と実際の音やその音同士の幅を照らし合わせて判断するのであって、相対音感を極限まで極めた人はほとんど絶対音感と変わらないし、絶対音感の持ち主も頭の中の音と聴こえた音を比較して相対的に判断しているのだと思います。

 

屁理屈だという意見もあると思いますが、いい例が思いつかなかったので、理屈と膏薬は何にでもくっつくってことで、僕なりに考えたことを文字に起こしてみました。

今回は下書きに眠っている記事より僕の中で相対的にちゃんと書けたんじゃないかな(笑)

ここまで読んでくださった方に盛大な感謝を。それではおやすみなさい。

 

 

 

 

【解釈】正義/ずっと真夜中でいいのに。

 

はい、というわけで勢いでブログを始めてそうそう続くもんじゃないよなと痛感しているヒグラシです。

下手に気負いすぎるからいけないのではないか。自分の趣味だし所詮誰も見ていないのだから気楽に書いていこうと思います。

記念すべき(?)第2回は僕の好きなアーティストである「ずっと真夜中でいいのに。」さんの新曲「正義」の自分なりの解釈を書いていこうかなと。

 

この曲は前作のMV「眩しいDNAだけ」までシリーズ的に続いていたと思われる物語とは違う、新しい物語と捉えていいと思います。

「眩しいDNAだけ」では過去のMVのキャラクターが勢揃いしていたのに対し今作は新キャラクターしか出てきませんし、東名阪ツアーが終わって心機一転ということでしょうか。

「正義」の物語が一作完結なのか、今後もこの続編が出るのか分かりませんが、夏のライブも楽しみですね。それでは早速見ていきましょう。

 

youtu.be

Ⅰ、概要

まずざっくりしたストーリーとしては、遠い昔、「必ず帰ってくるから」と嘘をついて戦争に行ってしまった父親の帰りをずっと待ち続けている女の子の話だと解釈しました。曲名の「正義」は、自国のために戦いに行くことを意味するのでしょう。

時代観としてもMV中に登場する切手や手紙、巨大なダイヤル式電話や電話ボックスなどが一昔前を想起させます。

 

Ⅱ、登場人物

本作のMVに登場するのはざっくりいうと

・女の子

・顔が切手の男

・黒猫風のキャラクター

ですね。ハリネズミは毎回出てくるずとまよのイメージキャラクターのような存在なので、MVという物語を読んでいる神視点のキャラクターと思ってもらっていいです。

そして、一瞬しか出てこないので見落としてしまいがちですが、一番重要と思われるのが#00:47に出てくるフライトキャップをかぶった男

これは女の子の父親だと思います。そしてこのシーンで父親の向かい側に立っているのが小さい頃の女の子ですね。

顔が切手の男は女の子が手紙を送ったり電話をかけている相手、つまり女の子の記憶の中の、まだ生きていると思っている父親の姿と解釈しました。

一方で黒猫風のキャラクターは死んでしまって霊的な存在になった父親の姿ですね。黒猫は日本においてはしばしば霊的な象徴として描かれることがあります。

この説の裏付けとして、切手の男と黒猫はともに胸の部分に同じ飾りをつけています。ミリタリーの知識には詳しくないのですが、これは軍服についている飾諸のようなものなのでしょうか?

 

 

Ⅲ、シーンごとの解説

それでは、MVの各シーンごとに解説を加えていきたいと思います。細かく書いていくと無限に話が長くなりそうなので、ある程度重要な部分をメインで書いていきたいと思います。

#00:16 いくつもの完成して封がされ切手まで貼られた手紙。送っても届かずに戻ってきてしまいます。

#00:40 生卵です。今後のシーンでも卵かけご飯を切手男と女の子が一緒に食べているシーンや、テーブルの上の生卵に切手が貼られているシーンがありますね。この食事風景というのは女の子の小さい頃の父親との数少ない思い出なのだと思います。

#00:44 ここからのシーンは重要な情報がたくさん詰まっています。一人食卓についている女の子は過去のある出来事を思い出しています。それは家を出て飛び立つ日の父親との思い出。「必ず帰ってくるから」と約束した父親を、おそろいのフライトキャップをかぶって笑顔で見送る幼き女の子。父親の仕事はカッコいい、正義の味方のようなものだと信じていたのでしょうか。

#00:56 ここから1サビ。悲しげな表情でアルバムを見つめる女の子と、そのアルバムの中の世界に立ち尽くしている切手男。ここからも切手男が女の子の思い出の中の父親だということがわかります。

#01:16 女の子が語り掛ける思い出の中の父親は生きていたらこのくらいの年齢になっていたはずだということなんですかね。女の子の年齢に対してちょっと白髭が生えすぎな気もしますが笑。

#01:32 飛行機が墜落して主翼がもげるほどの大事故なのですから、父親はやはり亡くなっているのでしょう、この後のシーンから亡くなった父親の擬人化(?)である黒猫が登場します。

#01:48 このシーンはお風呂場でしょうか。小さい頃一緒に入ったお風呂も大事な思い出なのか、笑顔で大切そうにアヒルのおもちゃを見つめています。船のおもちゃもあります。

#02:06 ここの歌詞に「正義」が入っています。「悪いことしてなくても秘密を隠し通すことが正義なら」から、やはり父親は女の子に「戦争に行くということ」や「もう帰ってこられない」ということを伝えていなかった、優しい嘘をついていたのだと分かります。

#02:15 もげた飛行機の翼の上で眠る女の子。

#02:25 2サビ。黒猫の存在(父親の死)が女の子の心の中に入ってきます。女の子は父親がもう死んだのだというつらい現実を直視しようとしていることが、消えていく切手男(生きている父親)によって表現されています。

#02:49 死んで黒猫となった父親は自身の死を受け入れてもらえたことで娘に会えると笑顔で来ますが、女の子は茫然としており、本心ではまだ死を受け止め切れていないからうれしそうではありません。壁には小さい頃に描いた自分と父親の似顔絵や飛行機の絵が飾ったままです。

#03:00 死を受け入れたことで立ち去ろうとする切手男を涙ながらに引き留める女の子。本当は死んでいてほしくない。まだ希望を持っていたいという未練があるのだと思います。

#03:35 ラスサビ。いつものように父親に語り掛けるが、女の子の本心では死んでいることが分かっているので切手男はもう応えてくれません。

#03:56 黒猫が抜け殻となった切手男の中に入り込み、父親が生き返ります。墜落したはずの飛行機が修復されていることや、昔のように父親と一緒にご飯を食べていることから、これは長い間待ち続けた女の子に父親が見せてあげた夢なのだと思います。

#04:23 一番最後に、目を覚ました女の子のもとへ誰かがやってきます。実は生きていた父親が帰ってきたと考えるのは難しいので、まだ夢から覚めたばかりで寝ぼけまなこの女の子には夢の中で見た父親の姿が一瞬本当にいるように感じた、あるいは霊となって見守ってくれていた父親の姿が一瞬だけ見えたのだと思います。今までで一番の良い笑顔です。

 

・ラスサビの歌詞が誤変換になっていくのは夢に落ちて意識が薄れていく様子を表現しているのだと思いました。前回の「眩しいDNAだけ」でもラスサビで誤変換により壊れていくゲームの世界を表現していましたが、この演出はとても好きです。

・他に気づいたこととして、本PVには多くの個所で樹木や花などの植物が描かれています。樹木が大きく育っていく様子は時の流れを表現するものです。それと同時に、樹は神秘的な存在としても考えられており、ラスサビのシーンで樹の枝が飛行機の翼をつなぎ合わせてくれていたり、眠る女の子の心の中に宿っている描写から神様のようなイメージで使われているのだと思いました。

 

Ⅳ、感想

というわけで長くなりましたが自分なりの解釈を書いてみました。この動画のコメントでも見かけたのですが、本当にずとまよの曲やMVは考えれば考えるほど一つ一つに意味があって、小説や絵本を読んでいるような感覚になります。

こういう深みがあって素敵な曲は大好きです。

 

 この記事を見てずとまよをより深く知るきっかけになってくれたり、共感や自分なりの解釈を持ってくださった方がいらっしゃいましたら幸いです。それでは。

 

 

このブログについて

みなさんこんにちは。ヒグラシです。

ある日突然なんの脈絡もなく、ノリと勢いだけでブログでも書いてみるかと思い立った訳ですが、人生なんて大体そんなもんですよね。ノリで行動を起こして、勢いで続けていくうちにやる気が出てきたり出なかったり。成果が出たり出なかったり。それですぐやめたり何となく続けてみたり。

なのでこのブログがいつまで続くか保証は全くないです。こんなことを初っ端に書くほど振り切れるのもどうかと思いますが笑

 

昔から話が長いとよく言われるので、手短に自己紹介から。ヒグラシです。ゆるいオタクです。アニメ見たり本読んだり動画見たり音楽聴いたりアイドル推したりします。要はどこにでも居そうな人です。

このブログについて軽く説明すると、私はそうしたコンテンツに触れて心動かされるような体験をしている日常の中でたまに、「自分も消費するだけじゃなく何かを残したい」と漠然と思ったりする訳です。カッコ良く言うと自分の生きた証みたいなものを残したくなる訳です。しかし私は大した人間でもないので、当然いきなり何かを生み出せたりはしないんですよね。そこで考えた末に、せめて消費したコンテンツから得たものや自分の日々考えていることを文字に起こして記録として残すくらいなら出来るかなと。ここはそういう思考のゴミ箱みたいな場所です。

内容はなるべく面白く分かりやすく、でも深そうなことを書いていけたらなと思っております。ユーモアはセンスが圧倒的に欠けているのと、中身に時間をかけたいという言い訳で薄めかもしれませんがご容赦を笑

 

読者のみなさまには私のささやかな承認欲求を満たしてもらうために、あるいは公開の場というプレッシャーを通して私のモチベーション維持に一役買ってもらうためにお付き合い頂きたいと思います。

 

ではでは。