氷解

日々の思考を垂れ流すゴミ箱

「絶対」を定義できるか?

お久しぶりです、ヒグラシです。

 

なぜこんな長い間投稿していなかったかというと、自分はいきなり完璧な記事を完成させようとしてしまう癖があるんですね。なので、この半年くらい?の間も実は何個か記事を書いてたんですけど、完成する前に「この話するならあれも書かないと、あ、こういう解釈もあるな…そもそもこんなこと記事にする必要あるのか?」となってしまい、ことごとく志半ばに筆を折ってしまっていたわけです。使い方あってるかな。

しかし、かの世界的に有名なSNSであるFacebookのCEO、マークザッカーバーグはこう言いました。

f:id:higurashi_nk:20191211013753j:plain

完成しなければそれは無価値であるが、完成さえしていればそれが不十分であっても0より価値あるはずだということで、今回こそはなんか記事を完成させようと思ったわけであります。

 

というわけで本題。最近Youtubeをよく見てまして。その中で『予備校のノリで学ぶ「大学の数学・物理」』というチャンネルの動画にたどり着いて、「中学数学からはじめる相対性理論」という2時間近くある動画を見ました。別に僕は理系じゃないですし、相対性理論に興味があるわけでも、アインシュタインに義理があるわけでもないですがたまたま最後まで見てしまったんですね。

以下の動画です。

 

 

それで、相対性理論について学ぶ中で、「光の速度はどんな速さで動いている者の視点から見ても常に同じ30万km/秒である」という光速度不変の原理を始めとして我々の直感に反するような事実がたくさん出てきてくるわけです。ほんとかよ?と思うかもしれませんが、今までそれに対する反証がなされていないので、現時点では事実と考えるほかないそうです。僕はそれを見て、今常識だと思っていることはすべて”現時点”での”絶対”であって、神の視点から見ても正しい、”永遠”の”絶対”が保障されているわけではないんだなと思いました。

じゃあ絶対という言葉は何をもって絶対なんだ?人間は他の生き物より高度な発展をとげて、今や地球を飛び出し宇宙まで進出しているというのに、暫定的に「正しい」と真偽不明で受け入れられて、置いてけぼりにされている無数の事実があるんじゃないか?それを前提に我々の生活は成り立っているのか?だとしたら何か一つ今後大きなほころびが見つかっただけで積み上げてきたものが崩れることがあるんじゃないかという不安を感じるのです。考えすぎでしょうか?

 

この辺まで考えたあたりで、僕は絶対なんてこの世にはなくて、すべては相対的なものなのでは?という発想に至りました。比較対象もなくただその一つだけを見て絶対に正しいと言い切れるのは神だけであって、我々の使う用語としての「絶対」は「絶対」じゃない。

 

なので、タイトルに従い我々が使う「絶対」という言葉を定義するとすれば、僕は「”相対”という言葉より”相対”的に確からしいこと」だと思います。

「絶対行く」と約束したのに寝坊したことが何度もある僕的にはこの定義はとてもしっくりきてます。お気に入りです。その言葉を言ったときは多分いつもより乗り気だったんでしょうね。でも前日に夜更かしをしたり、後からやっぱりめんどくさくなったりするんですよね。何の話だっけ。

 

相対音感絶対音感という言葉があります。前者は二つの音を聴いたときにどちらがどれくらい高いか分かることをいい、後者は一音を聴いただけでそれがどの音か分かるそうです。しかし、音感はいずれにせよ自分の記憶の中の音と実際の音やその音同士の幅を照らし合わせて判断するのであって、相対音感を極限まで極めた人はほとんど絶対音感と変わらないし、絶対音感の持ち主も頭の中の音と聴こえた音を比較して相対的に判断しているのだと思います。

 

屁理屈だという意見もあると思いますが、いい例が思いつかなかったので、理屈と膏薬は何にでもくっつくってことで、僕なりに考えたことを文字に起こしてみました。

今回は下書きに眠っている記事より僕の中で相対的にちゃんと書けたんじゃないかな(笑)

ここまで読んでくださった方に盛大な感謝を。それではおやすみなさい。