氷解

日々の思考を垂れ流すゴミ箱

ハゼ馳せる果てるまで/ずっと真夜中でいいのに。【楽曲考察】

どうもヒグラシです。

私はずとまよの曲が大好きで、一番好きな曲はどれかと聞かれるとなかなか返答に窮するのですが、今回は最近自分の中で再燃している『ハゼ馳せる果てるまで』について自分なりの解釈を書きなぐってみようと思い、ひさびさに筆を執りました。

考えれば考えるほど深くて切なくて、本当に大好きな曲です。

 

『ハゼ馳せる果てるまで』


曖昧な解決 どう踠いても
単純問題解答ならば
表 裏 使い切って
遠ざかる練習 繰り返すの

会いたいは有限 壊さないように
確かめてしまう癖を
嫌がらないで もう助けてよ
また スパイラルに絡まる

もう 君どころじゃないよ
春も消毒も 終わらせたいから
人口知能 使って 引き止めたりしないで
簡単に正解 ばら撒かないでいてね

泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ それで消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ
綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 忘れてしまうのに。。

君の欠点ばかり漁って
孤立無援の罠を潜って
深い曹操に自ら溺れて
涼しい顔で笑って
そっと涙を零すのなんで
渡りたくないのにどうして

ずるいよ ずるいよ
痛い痛いの飛んで行けって
もういいよ もういいよ
君の意味になれないなら
上昇気流 奪って 引き止めたりしないで
簡単に可能性 与えないでいてね

泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ それで消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ
綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 忘れてしまうのに

何が抗うの 何を憎めるの
預けないでいてよ

泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ 指で消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ
綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 逃れてしまうのに

当てはまってても 抗っていたいよ
今宵も水に 溶けてお休み
罰があってても 振り向かないよ
単純に慎重に 泳いでいたいの
当てはまってても 争っていたいよ
今宵も水に 溶けておやすみ
泥まみれでも 信じさせてよ
異なる自分を愛していたいの

(公式YoutubeチャンネルのACAねさんのコメントより引用)

https://www.youtube.com/watch?v=ElnxZtiBDvs

 

【PVについて】

今回の舞台は宇宙です。主人公の子の雰囲気やイントロの感じも相まってマクロスFを彷彿とさせます(マクロスFを見たことはない)。

ニラちゃん

ストライプ師匠/エグン(頭巾をかぶった男)

うにぐりくん

 

それでは早速、頭から歌詞を見ていきましょう。

◎イントロ

曖昧な解決 どう踠いても
単純問題解答ならば
表 裏 使い切って
遠ざかる練習 繰り返すの

 

冒頭から、この曲の本質的なテーマを表しています。「曖昧な解決」とは、自分と彼が別れる未来がそう遠くないことに薄々気づいていながら、ずるずると今の関係を続けていくことを指しているのだと思います。

この曲のテーマについてですが、私は主人公の女の子が彼との遠距離恋愛を終わらせたいと悩んでいる歌だと思っています。ずとまよで宇宙と言えばサターンが出てくる方も多いと思いますが、この曲のMVにも多くの点でサターンを彷彿とさせるシーンがあります。サターンは自分と彼を地球と土星に例えた遠距離恋愛の曲であると解釈している方が多いのかなと思いますが、私はこの曲がサターンの続きを歌った曲だと考えています。

好きなのに遠距離のためなかなか会えない彼との関係を続けることが辛い、でもこのままの関係をずっと続けていくのが本当に幸せなのだろうか、という悩みを歌った曲なのだと思います。

「どう踠いても 単純問題解答ならば」は、このままどう抗っても単純な問題と解答でしかないことは明らかだということ。つまり「どうしたら今の彼とのあいまいな関係を変えることができるのか」という問いと、「自分が彼のことをあきらめて別れを切り出すしかない」という解答です。

「表 裏 使い切って 遠ざかる練習 繰り返すの」は、彼への未練を断ち切るために、できる限りの表(建前)と裏(本音)を使いこなして、彼との距離を徐々に広げていこうと日々を過ごしているのだと思います。

 

◎1番Aメロ

会いたいは有限 壊さないように
確かめてしまう癖を
嫌がらないで もう助けてよ
また スパイラルに絡まる

 

「会いたいは有限 壊さないように」は、本当は会いたい気持ちが毎日止まらないけれど、それを素直に伝えれば彼に面倒な女だと思われ、関係が壊れてしまうことが目に見えているから、ここぞというときにしか使えない=「有限」ということ。

「確かめてしまう癖を 嫌がらないで もう助けてよ また スパイラルに絡まる」は、彼の気持ちが離れて行ってしまわないか不安で、つい言葉や行動でそれを確かめてしまうけれど、それで彼に嫌がられるのは避けたい、という相反する感情がずっと自分の中でぐるぐると駆け巡っている。

 

◎1番Bメロ

もう 君どころじゃないよ
春も消毒も 終わらせたいから
人口知能 使って 引き止めたりしないで
簡単に正解 ばら撒かないでいてね

 

「もう 君どころじゃないよ」。私はここが実にACAねさんらしくて深い歌詞だなと思うのです。放っておくと、つい君のことばかり考えてしまう、だから君のことを考えないようにするために必死で、君のことなんて考えている暇がないよ、ということなのかなと思いました。

「春も消毒を終わらせたいから」は、春=彼との青春、消毒=彼への気持ち(毒)を消し去ること、と捉えました。彼との付き合いをやめて、彼への気持ちを早く断ち切ってしまいたいという苦悩です。

「人口知能 使って 引き止めたりしないで 簡単に正解 ばら撒かないでいてね」は、まるで人工知能で分析したかのように、自分が求めていた言葉(彼が自分を愛してくれていると思わせる言葉=正解)を簡単に口にしないでくれ、彼への気持ちを諦められなくなるからという意味です。彼は自分の扱いがよく分かっている、だからこそずるずると諦められずに付き合い続けてしまっている。口から的確なセリフが出てくることを「人口知能」と書く工夫がACAね節ですね。

 

◎1サビ

泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ それで消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ
綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 忘れてしまうのに。。

 

「泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か 覚えた息継ぎをして」。サビのメロディや歌詞はこの曲でも特に大好きなの所なのですが、解釈しようとするとなかなか難解です。

おそらく「泳ぐ」は彼との関係を長続きさせようとすること、「溺れる」は彼との関係を断ち切ってしまうことだと思います。彼とのこんな曖昧な関係を長続きさせる必要はないと本音では分かっているし、彼に依存している弱み(傷)があるわけでもないのに、いつの間にかだらだらと関係を続けていくための小手先のふるまい(息継ぎ)をすることは覚えてしまった。

「先に溺れるよ それで消し切れるなら どこまでも ただ 遠くへ」。だから自分から先に溺れる(彼と別れる)ことを選ぶよ、それでこの苦しい思いを消し切れるのならば、泳ぐことをやめて、ここではない遠くへ行きたいと思うよ。

「綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま」。綺麗にこの関係を終わらせるために、建前の言葉を伝えようと思うよ、彼との思い出の価値を損なわないようにしたまま。

「おいでって おいでって おいでって なんで 明日にはもう 忘れてしまうのに。。」。自分は覚悟したのに、彼は今日も優しく「おいで」と声を掛けてくる。なぜ忘れさせてくれないのだろうか。どうせあなたは、明日にはもう私との夜なんて忘れてしまうのに。。

 

切ない歌詞ですね。この世界観と奥深さが本当に好きです。「忘れてしまうのに。。」と句点を2個並べて三点リーダーよりもライトな余韻、物悲しさを表しているところも好きです。MVでここのニラちゃんがすごく悲しそうな顔をしながら水に飛び込むシーンも印象的でした。

 

◎2番Aメロ

君の欠点ばかり漁って
孤立無援の罠を潜って
深い曹操に自ら溺れて
涼しい顔で笑って
そっと涙を零すのなんで
渡りたくないのにどうして

 

「君の欠点ばかり漁って」は君のことを嫌いになろうと、欠点を探そうとしている。

「孤立無援の罠を潜って」は彼と別れて一人になってしまう未来の自分に対する不安を乗り越えようとしている。

「深い曹操に自ら溺れて」、まるで三国志曹操のように知略を巡らせ理屈で気持ちに整理を付けようとしている。

「涼しい顔で笑って そっと涙を零すのなんで」、私が気持ちを伝えても君は怒ったりせず、涼しい顔で笑っていたのに、と思えば涙をこぼして悲しんでいる。もう私には君の本当の気持ちが分からない。

「渡りたくないのにどうして」、このまま君という名の海を泳いで渡り切ることはやめようと決めていたのに、どうしてそんな顔をするのだろう。

 

こんな感じでしょうか。ここも解釈が難しいですね。個人的には不完全だと思っているので、また自分の中で腑に落ちる解釈が思いついたら追記します。

「漁って」「潜って」「溺れて」「涼しい」「零す」と、ワンフレーズごとに水に関係ある言葉でまとめているのがおしゃれです。

いきなり三国志曹操が出てきたところもおそらく言葉遊びなのだと思いますが、そこまでは分かりませんでした。「想像」と「曹操」を掛けているのかな?

 

◎2番Bメロ

ずるいよ ずるいよ
痛い痛いの飛んで行けって
もういいよ もういいよ
君の意味になれないなら
上昇気流 奪って 引き止めたりしないで
簡単に可能性 与えないでいてね

 

「ずるいよ ずるいよ 痛い痛いの飛んで行けって」は、私の心の痛みを癒してくれるおまじないのような、君の言葉がずるいという意味。そんなのはまやかしで、本当は痛みが消えることはないのに。

「もういいよ もういいよ 君の意味になれないなら」は、君にとっての大切な人、つまり君の人生の意味になれないのであれば、もうこの関係は終わらせてしまっていいよ、と吹っ切れている様子です。

「上昇気流 奪って 引き止めたりしないで 簡単に可能性 与えないでいてね」。上昇気流とは、彼への思いを吹っ切って離れさせてくれる気持ちのこと。それを奪って自分のことを引き止めないで欲しい、まるであなたとの関係が続くような期待を持たせる言葉を簡単に与えてこないで欲しいという意味。

これはこれでしっくりくるのですが、サビで彼への思いを断ち切ることを「溺れる」と表現したのに対し、ここでは空に飛び立つことという様子で表現しているのが少し考察不足かもと感じてます。もし「溺れる」が彼との曖昧な関係に甘んじる決心をするという意味なのだとしたら、溺れて沈んでいく様子と飛び立つ様子が綺麗に対比になるのですが、サビの歌詞の雰囲気からしてそれだと説明が上手く出来ない気もしています。

 

◎2サビ

泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ それで消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ
綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 忘れてしまうのに

 

基本的には1サビと同じですね。唯一違うのは、最後の「明日にはもう 忘れてしまうのに」に句点が付いていない部分です。1サビのところではまだ彼の言葉に戸惑っている様子があったのに対し、ここでは彼の言葉を振り切って前に進もうという気持ちが勝ってきているのかなと思いました。

◎Cメロ

何が抗うの 何を憎めるの
預けないでいてよ

 

「何が抗うの」は、彼への気持ちが断ち切れない理由はどこにあるのだろうという意味。

「何を憎めるの」は、彼への気持ちを断ち切ろうとする理由はどこにあるのだろうという意味。

「預けないでいてよ」は、この関係の行く末を私に決めさせないでよ、という意味だと思いました。主語がないのでここは解釈が難しいですね。

 

◎落ちサビ

泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ 指で消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ

 

1サビ、2サビでは「それで消し切れるなら」だったのが、「指で消し切れるなら」になっています。指で彼との関係を消し切る=彼の連絡先や、彼とのLINEのトーク履歴などを消し去って、それでこの気持ちが断ち切れるのであれば、思い切って進もうということだと思います。

 

◎ラスサビ

綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 逃れてしまうのに

 

ここも1サビ、2サビと基本的には同じ。「明日にはもう 忘れてしまうのに」が彼のことを表していたのに対し、「明日にはもう 逃れてしまうのに」は、自分のことを表しているんだと思います。明日にはもうこの関係を終わらせると決心しているのに、なぜ彼は最後まで嫌いにさせてくれないのだろう、ということですね。

 

◎アウトロ

当てはまってても 抗っていたいよ
今宵も水に 溶けてお休み
罰があってても 振り向かないよ
単純に慎重に 泳いでいたいの
当てはまってても 争っていたいよ
今宵も水に 溶けておやすみ
泥まみれでも 信じさせてよ
異なる自分を愛していたいの

 

彼との関係を続ける方が心地いいのだとしても、その現状に抗っていたいと思う。抗い疲れたら今日も一旦休もう。この自分の選択が咎められるべきものだったとしても、自分はもう振り向かないよ。ただ流されるように漫然と付き合うのではなく、慎重に自分の気持ちを確かめながら付き合っていきたいだけだから。もし彼との関係を続けていた方が良かったと悔いることがあっても自分の気持ちと戦っていきたいと思う。戦い疲れたら、一旦休めばいい。ハゼのように泥まみれになりながら進む自分だけど、この選択が間違いではなかったと信じさせてほしい。今までと違う、一歩前に進んだ自分のことを愛していたいと思うよ、というアウトロです。

 

泥臭いけれど前向きで、勇気をもらえる曲だと思います。

 

こういうのって、正解があるわけじゃないので、みなさんも何か自分なりの解釈を見つけられたら何気ない曲も味わい深いものになるのではないでしょうか。他の人の解釈を見ると、自分の気づかなかった側面から曲を見ることができるので、そういうのは素敵だなと思います。

 

それでは。

 

※PVに関する考察は、また追記予定。たくさん書きたいことがあるので。

時間の感じ方は楽しいときと辛いとき、どちらが長い?

こんばんは、ヒグラシです。

 

テレビで、もうじきロシアのウクライナ侵攻から1年が経つというニュースが流れていました。侵攻開始とされているのが2022年2月24日とのことなので、あと2週間ほどで丸一年です。

私はそれを見て「もう一年もやっているんだな」と思いましたが、ニュースの中でインタビューを受けていたブチャの方が、涙ながらに「この戦争で夫を亡くしました。戦争が始まってまだ一年なんです」と言っているのを聞いて少し思うところがあり、風呂に入りながら標題のようなことを考えていました。

 

1 ジャネの法則へのアンチテーゼ

 ジャネの法則というものがあります。Wikipediaによればフランスの哲学者、ポール・ジャネが発案した、人間の時間の感じ方に関する心理学的現象に対する一つの考え方です。

 よく「年を取ると一年が短く感じる」と言われますが、その現象をジャネは以下のように説明しました。「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例する」と。つまり5歳の子供にとって1年は人生の20%を占める長い時間だが、50歳の大人にとって1年は人生の2%に過ぎないから、年を取ると1年が短く感じるのだと。

 私がこの話を知ったのはもう10年くらい前になりますが、「ほおーなるほどなあ」と感心したのを覚えています。そしてさっき風呂に入る時まで何の疑問も持ちませんでした。

 

 しかし、私は湯船につかりながら、唐突に「この法則は間違っているのではないか?」と思いました。なぜならば、ジャネのいう「生涯」という分母は年を重ねるごとに大きくなるからです。

 上にあげた具体例を使って説明するならば、5歳の子供にとっての「生涯」とは客観的には5年であり、50歳の大人にとっての「生涯」とは客観的には50年ということです。何を当たり前のことを言っているんだと思うかもしれませんが、ジャネの説明はあたかも「生涯」という枠の大きさが初めから固定されていて、それを年齢で分割するから1年あたりの比率が小さくなると言っているにすぎないということです。

 仮に、生まれてから現在までの記憶が全て漏らさず頭に残っている完全記憶能力の持ち主がいたとしましょう。その人にとっては、「生涯」の枠は5歳の時は5年、50歳の時は50年なのですから、5歳の時の1年は当然5÷5=1ですし、50歳の時の1年は当然50÷50=1です。つまり記憶が1秒1秒刻々と脳に刻み込まれていることを前提にすれば、時間の感じ方は一生変わらないはずだということです。

 

2 「記憶に残らない」ということの意味

 では、なぜ我々は年を取ると1年が短く感じるのでしょうか。「人間は昔の記憶を忘れていくから」でしょうか?

 それは違います。仮に、直近80分の記憶しか頭に残らず、それよりも昔のことは古いものから消えていってしまう、悲劇の人がいたとしましょう。その人にとっての人生の記憶、これはつまりジャネのいうところの「生涯」と同義になるわけですが、これはジャネの説明通り80分という枠組みから固定されてずっと動かないわけです。ずっと動かないということは、その人にとって直近5分の記憶というのは、常にその人の人生の5/80=6.25%であり、その人の時間の感じ方もずっと変わらないはずだからです。

 ちなみに、なぜこんな分かりにくい数字で例えたのか気になる人は、「博士の愛した数式」という小説を読んでみることをオススメします。

 

 じゃあ一体なぜ1年が短く感じるんだ、これはそう思い込んでいるだけなのか?

それも違います。答えは「新しいことが記憶に残らなくなっていくから」です。

 「は?」と思いましたか?

 我々人間は目覚ましく発展する技術の進歩によって自然の驚異から解き放たれ、整備された社会や法によって生命が脅かされない安全な日々を過ごしています。しかしそれは同時に刺激のない生活に繋がり、やがて「慣れ」「飽き」というぜいたくな悩みに苛まれることになります。

 昔はワクワクでいっぱいだった電車のお出かけも、お気に入りのラーメン屋の味も、学校も、仕事も、全部そのうち慣れてきてしまうのです。日々の中に占める「慣れ」の割合が大きくなっていくと、一日の感情の動きが小さくなり、感情の動きが小さいと記憶にも残らない、記憶に残らないから1年を振り返った時に「もう一年も経ったのか」と思う訳です。

 

3 楽しいときと辛いとき、どちらが長い?

 ここまで話せば、いよいよ記事のタイトルにもなっている本題です。本題です、と仰々しく言いましたが、こればっかりは人それぞれだというほかないです。雑な結論で申し訳ない。

 ですが、一般的には「楽しい時間はあっという間だね」「辛いときは時間が長く感じるよ」と言ったりします。私の体感としても「辛いとき」の方が長く感じる気がします。私がこれまで長々話してきた考え方に基づけば、時間を長く感じるということはその分だけ記憶が強烈に残っているということです。記憶に残るということは、それまでの人生での経験が少ない、慣れていないということになりますよね。

 だからといって、楽しんでいるときの記憶が全然残っていない人が多いとまで主張するつもりはありませんよ。だからこそ、結論は人それぞれだと思います。

 

 ただ、もしかすると楽しい時間をあっという間に感じるということは、それだけ幸せな人生を送っているということなのかもしれませんね。

 ウクライナの方々にとってこの一年は、どのくらい長いものだったのでしょうか。これから先の一年はどのくらい長く感じるのでしょうか。

 早く平和が戻ってほしいと、そんなことを思いました。

ブログタイトル『氷解』について

こんばんは、ヒグラシです。

ただいまの時刻は日付変わりまして、2023年1月7日(土)の午前1時45分になります。

残業からの飲み会でこんな時間になってしまいましたが、ブログを書く癖をつけないといつまで経っても定着しないので気合いで書いてます。

 

といっても、気合いを入れた記事を書ける元気も足りないので、今回はこのブログのタイトルについて軽くお話ししたいと思います。多分興味ない方しかいないと思いますが、物好きな方がいたら読んでもらえたら幸いです。

 

 

私は昔からアニメを見るのが好きで、いまでも仕事が忙しくても毎クール一本は見るようにしているのですが、私が最も好きなアニメが「氷菓」というタイトルなのです。

氷菓」は2012年に京都アニメーションさんによってアニメ化された作品で、米澤穂信さんという方の同タイトルの小説が原作です。ジャンルは青春ミステリーといったところでしょうか。

ミステリーと聞くと、多くの方はどんな物語を想定するんでしょうか。コナン・ドイルアガサ・クリスティをイメージする方が多いのかもしれません。しかし、「氷菓」という作品で扱われるミステリーは殺人事件のような物々しい内容ではなく、あくまで主人公たちが学園生活を送る上で体験していく不思議や謎といった、日常ミステリーであるところが特徴です。

一方で、青春ミステリーと銘打っている通り、日常ミステリーは作品の魅力の半分にすぎず、事件を解決していく中で主人公たちが恋愛や自分のアイデンティティー、在り方について悩む様子を描いた青春学園モノという側面もあります。

そして何より、原作の魅力を存分に映像化してくださった京都アニメーションの凄さを感じることができる作品でもあります。

氷菓」については単独記事を公開するつもりなのですが、いざ書き始めると書き足したいことや書きなおしたいことが無数に出てきてしまい、去年書き始めたにもかかわらず今も下書きに塩漬け状態です。しかし、完璧を目指すよりまず終わらせることが大事だと思うので、今年中には上げたいなと思います。

 

長くなりましたが、私はブログのタイトルを考えるときに「ひょうか」という文字列を入れたいなと思ったのです。そこで、「氷解」という単語を想起しまして、日常生活で感じたことや些細な疑問への意見を自分なりに書いて記事に昇華していくこのブログのコンセプトが、氷が解けていく様子にぴったりだなと思い至ったわけです。

 

という訳で、今回はブログのタイトルについて書いてみました。

本当はもっとタイトル負けしないような思慮深く興味深い考察記事を上げたいのですが、筆力と感受性と思考力が不足していることを実感する日々ですね。

 

今日はこんなところで。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

おやすみなさい。

 

『星座になれたら』から読み解くぼ喜多の尊さ

あけましておめでとうございます。ヒグラシです。

2023年はTVアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」第2期を全力で応援していきたい、そう思わせるくらい衝撃を受けた作品でした。寒くなってきた時期にとびきりアツい青春を見せてもらった気がします。

 

そんな中、ぼざろ最終話が昨年のクリスマスイブの24時にAbemaTVで放送されたわけですが、Aパートのライブシーンは素晴らしかったですね。ハイクオリティな演奏シーンを一曲見せてくれるバンドアニメは最近増えてきましたが、たっぷり尺を使って複数曲を繋ぎまで見せてくれるアニメは自分は見たことがなかったので、その丁寧さに脱帽しました。ぼっちちゃんの心情描写も相まって、自分が目の前で実際に見ているような、リアルタイムに進行していくライブ感・没入感を体験できたところが良かったです。

 

今回はライブで演奏したうちの二曲目「星座になれたら」を考察していきたいと思います。

www.youtube.com

 

まずは歌詞から。

もうすぐ時計は6時
もうそこに一番星
影を踏んで 夜に紛れたくなる帰り道
どんなに探してみても
一つしかない星
何億光年 離れたところからあんなに輝く

いいな 君は みんなから愛されて
「いいや 僕は ずっと一人きりさ」

君と集まって星座になれたら
星降る夜 一瞬の願い事
きらめいて ゆらめいて 震えてるシグナル
君と集まって星座になれたら
空見上げて 指を差されるような
つないだ線 解かないで
僕がどんなに眩しくても

もうすぐ時計は8時
夜空に満天の星
何億光年 離れたところにはもうないかもしれない

月が綺麗で 泣きそうになるのは
いつの日にか 別れが来るから

君と集まって星座になれたら
彗星みたい 流れるひとりごと
消えていく 残像は 真夜中のプリズム
君と集まって星座になれたら
切なる願い 誰かに届いたら
変われるかな 夜の淵を
なぞるような こんな僕でも

遥か彼方 僕らは出会ってしまった
カルマだから 何度も出会ってしまうよ
雲の隙間で

君と集まって星座になれたら
夜広げて 描こう絵空事
暗闇を 照らすような 満月じゃなくても
だから集まって星座になりたい
色とりどりの光 放つような
つないだ線 解かないよ
君がどんなに眩しくても

 

「ギターと孤独と蒼い惑星(ほし)」や「フラッシュバッカー」の歌詞「まるで星屑みたいだと」もそうでしたが、ぼっちちゃんは宇宙や星を題材にした曲が多い気がしますね。私も好きです。

宇宙を旅するぼっち

 

1 ぼっちちゃんから喜多ちゃんへのメッセージ説

この曲はぼっちちゃんが喜多ちゃんに向けて書いた歌詞という解釈がしっくりくる気がします。「僕」がぼっちちゃん、「君」が喜多ちゃんですね。

 いいな 君は みんなから愛されて
「いいや 僕は ずっと一人きりさ」

 みんなから愛され、ちやほやされる喜多ちゃんを見て、ぼっちちゃんは「自分とは違う」と思ってしまう訳です。

みんなに優しい喜多ちゃんは、ぼっちちゃんにも声を掛けてくれますが、「僕はずっと一人きりさ」と答えます。

 

君と集まって星座になれたら
星降る夜 一瞬の願い事
きらめいて ゆらめいて 震えてるシグナル
君と集まって星座になれたら
空見上げて 指を差されるような
つないだ線 解かないで
僕がどんなに眩しくても

そんな憧れの存在である喜多ちゃんと一緒にバンドをやって、キラキラした世界を見たい、ここはそんなぼっちちゃんの気持ちが表れていると思います。「星座」が結束バンド、 「つないだ線」はぼっちちゃんと喜多ちゃんの絆ですね。「僕」が「君」の眩しさについていけず、陰になってしまっても手を離さないで欲しいと願っています。

 

君と集まって星座になれたら
切なる願い 誰かに届いたら
変われるかな 夜の淵を
なぞるような こんな僕でも

二番のサビです。「切なる願い」はぼっちちゃんの願い、つまりぼっちちゃんがバンドをやる理由である「みんなの結束バンドを最高のバンドにしたい」(アニメ第8話)ですよね。

そうすればこんな僕でも輝けるかもしれない。

「夜の淵」の意味が難しかったんですが、「淵」には中心から離れた所という意味の他に、水の流れがゆるやかで深くなっているところという意味もあるそうです。夜の中でもひと際暗く、流れがよどんだ場所にいる自分でも輝けるだろうか、という意味だと思います。

 

2 喜多ちゃんからぼっちちゃんへのメッセージ説

さて、そんなぼっちちゃんから喜多ちゃんへの熱いメッセージのような曲ですが、私は逆に喜多ちゃんからぼっちちゃんへのメッセージという解釈もアリだなと思っています。作品の設定上、歌詞を書いているのはぼっちちゃんですが、歌うのは喜多ちゃんなのでそのような解釈も個人的には素敵だなと思います。

喜多ちゃんはみんなに愛される人気者ですが、喜多ちゃん自身は少し複雑な思いも抱えています。勉強も運動もできて人望もあって、カラオケも得意な自分だけど、どれもそこそこ止まりであり、ぼっちちゃんのように特別な才能はない。そんな自分を変えて、バンドでみんなと同じ夢を追ってみたいと思い、結束バンドに入ったが、ギターが上手く弾けずに逃げ出してしまった。でもぼっちちゃんは自分の努力の才能を認めてくれて、再び結束バンドに誘ってくれた。

この曲は喜多ちゃんが自分を認めてくれたぼっちちゃんへ宛てた曲と考えることができるのです。

いいな 君は みんなから愛されて
「いいや 僕は ずっと一人きりさ」

このセリフは、ぼっちちゃんに憧れの存在と思われている喜多ちゃんの独白とも解釈できます。特別な才能がない自分は一人では何者にもなれない、一人きりだ。

君と集まって星座になれたら
星降る夜 一瞬の願い事
きらめいて ゆらめいて 震えてるシグナル
君と集まって星座になれたら
空見上げて 指を差されるような
つないだ線 解かないで
僕がどんなに眩しくても

でも、人を惹きつけるギターの才能を持ったぼっちちゃんとなら、特別な何かになることができる。だから僕が眩しく見えたとしても、距離をとらないで一緒にいてほしいという喜多ちゃんの願いのようにもとれますよね。

君と集まって星座になれたら
切なる願い 誰かに届いたら
変われるかな 夜の淵を
なぞるような こんな僕でも

ここは、特別な何かが見つけられないまま暗い夜の淵をさまよっている自分でも君となら特別になれるのかな、という心情ですよね。

 

 

以上、自分なりに二つの視点から「星座になれたら」を解釈してみました。やっぱりキーになるのは

「いいや 僕は ずっと一人きりさ」

というセリフが誰のものかという点ですよね。私はここに解釈の余地を残していることに、歌詞の深みがあって味わい深い曲だなあと思います。

 

3 補足

余談ですが、この曲には意味がありそうでなさそうなフレーズが散りばめられているのが少し不思議でした。ですが、以下のように懐かしい曲のタイトルから引用しているのかもしれないと思いました。

「夜の淵」・・・RADWIMPSの楽曲(2019)

「遥か彼方」・・・ASIAN KUNG-FU GENERATIONの曲(2003)

「カルマ」・・・BUMP OF CHICKENの曲(2006)

ぼっち・ざ・ろっく!の原作者はまじあきさんや、「星座になれたら」の作詞提供をしてくださった樋口愛さんは、20代後半~30代前半くらいだと思うので、丁度これらの曲がリリースされた年代が青春時代に重なっていることからきているのではないでしょうか。夜の淵は2019年と最近ですが、この曲は2011年の東日本大震災から8年のタイミングで被災者の方に向けて書かれた曲とのことだったので、一応挙げさせていただきました。

他の曲も見つけた方がいらっしゃいましたら、コメントなど宜しくお願い致します。

 

それでは。

 

www.youtube.com

”出社”について考える

こんばんは、ヒグラシです。

もう年の瀬ですね。

私事ですが今年の12月から働き初めまして、2022年は社会人になって初の年越しだったりします。なので、世の先輩社会人たちほど年末年始休みのありがたみを感じきれてはいませんが、それでも自分の中では貴重な休みだなと感じてます。

働きたくない、出社したくない、もっと休んでいたいというのは人類共通の願いです。

 

ところで、皆さんは「出社」という言葉について深く考えたことはありますか?ありませんね。どうでもいいですもんね。

私は、最近この言葉について考え始めてしまい、思考の沼に沈んでいます。

 

日本語とは難しいもので、会社に働きに行くことは「出勤」「出社」と言ったりしますが、会社から仕事を終えて帰ることは「退勤」と言います。

しかし、これらの現代日本語は我々が今まで学校で習ってきた対義語の感覚とは異質で根深い問題を抱えていることが分かります。

「出る」の対義語は「入る」、「退く」の対義語は「進む」です。

なら出勤の対義語は入勤じゃないとおかしいじゃないか。でも入勤なんて単語はないし、仮にあったとしても入勤と出勤なら入勤の方がなんだか仕事を始めるときっぽい。出社の対義語も入社じゃないとおかしい。入社という単語はあるが、これは会社に所属し始めることを言いますよね。「今日付けで入社しました、ヒグラシです!よろしくお願いします!」なんて具合です。

退勤の対義語は進勤なのか?いや進勤ってなんだよ。進んで勤務したいやつがいるわけないだろ。いやいるかもしれないけど。

仕事を辞めて所属していた会社を去ることは「退社」「退職」といいますが、退社は単に一日の仕事を終えて家に帰るときも使う気がします。また、退職の対義語として進職という言葉を使うこともありません。

 

ルールがなさすぎるだろ!!

ここは日本語の無法地帯なのか?謎は深まるばかりです。

日本語を学んでる外国人発狂しちゃうよ。

 

最近は技術の進歩とコロナの影響によりリモートワークが普及して、そもそも会社に行かなくても仕事をすることができるようになりましたよね。そうすると会社に行く行かないという概念も今後薄れていくのかもしれません。

 

結局私の中では、いまだ出社・入社問題(今適当に名付けた)の思考は整理できていませんが、最近の疑問ということで記事をしたためてみました。

 

それでは皆様、良いお年を。

 

 

作品を楽しむには「バカ」になれ

こんばんは。ヒグラシです。

 

皆さんは小説、マンガ、アニメ、映画、音楽…様々な作品を鑑賞する際に「昔はもっと心動かされる作品がたくさんあったのに最近はそういう経験が少ないな」と思うことはありますか?この疑問に対する有名な解答として『湾岸ミッドナイト』という作品の以下のシーンが挙げられます。

f:id:higurashi_nk:20210217105109j:plain

私はこれは真理だと思っていて、どんな時代でも楽しいもの、面白いもの、名作と呼ばれるものは生まれていると思います。そういったプラスの感情があまり感じられなくなっていくのは、決して作品の質が時代とともに衰えているからではなく、自分の作品を楽しもうというスタンスが無意識のうちに変わっているのかもしれません。

 

 

これは個人的な考えですが、私は作品を見たり読んだりする時は意識的に「バカ」になるように心がけています。

素直になる、楽天的になると言い換えてもいいかもしれません。

 

日々名作と言われる作品を数多く見たり読んだり聴いたりしていると、それがどんなに素晴らしいものであってもだんだんと人は慣れていきます。仮に同じ展開・面白さの作品が二つあったとしても、一つ目より二つ目の方が感情を動かされることが少なくなります。

「この性格のキャラはこの後こう動くんだろうな」「このギャグ前にもどこかで見たことあるな」「こいつはラストで死にそうだな」「このコード進行の曲はあの曲に似てるな」みたいに展開が読めるようになってきます。これは多くの作品を楽しんでいる人ほど顕著で、記憶がある以上は必然だと思います。だからこそ「記憶を消してまた見たい作品」というキャッチコピーが付いたりもします。

 

展開を予想できてしまうと、作品の世界観に入り込みにくくなり、冷めた視点で物語を見るようになり、作品の粗を探すようになり、面白い所よりつまらない所が目立って見えます。

だからつまらなく感じます。

穿った見方をやめて、目の前の物語を素直に受け入れようとすることが大切です。

時には作品のチープさ、つまらなさすら受け入れて楽しもうとする心持ちが必要です。セレンディピティ(偶察力)というやつですね。

 

あともう一つ。

これは私も未だに囚われがちなのですが、人の評価を気にするのは良くないです。

今はインターネットが発達して、SNSやブログや動画サイトに、他人の感想や考察が溢れています。作品に対して自分なりの意見をしっかり持っている人が、他の人の意見を知って「ああ、そんな考え方もあるのか」「この演出は気づかなかった」というように見識を広めるために情報を収集するのは大いに結構ですし、「この作品はみんな面白いと言っているから見てみようかな」というように新たな作品に出会うきっかけとして使うのは私も良いと思います。

ですが、「あの作品はみんなつまらないと言っているから見なくていいかな」「私は面白いと思ったけど、みんなつまらないって言っているし、確かにつまらないのかも」とマイナスの側面で情報に振り回されていることはありませんか?

 

周りの評判に踊らされて自分が素敵な作品に出会う機会を潰してしまうことも、周りの評判に流されて自分の感じた面白さまで嘘だったんじゃないかと思ってしまうことも、本当にもったいなくて悲しいことです。

 

私がこのブログを書いている理由の一つにも、作品を見て思ったことを自分の言葉で表現する場という側面があります。

 

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました~

性善説か性悪説か

みなさんお久しぶりです。ヒグラシです。

今回私が思考のゴミ箱に投げ込むゴミとして選ばれたのは表題のテーマになります。ブログ開設一発目の自己紹介記事でコンセプトを「なるべく面白く」とか言っておいて、久しぶりに来たと思ったらこんなクソつまんなそうなもん持ってきやがってと思った方も多いでしょう。いやそもそもこのブログを見てる人なんていないから多くないでしょうか。でもたまたま思いついたので書きます。意味は特にないです。

 

本題ですが、「性善説」「性悪説」という言葉があります。

性善説は、人は元々善人として産まれてくるのだという考え方

性悪説は、人は産まれながらにして悪人なのだという考え方

ですね。

元は儒教方面から派生した考え方らしいですが、私は歴史も宗教もてんでダメなので独自見解でいきます。

 

このどちらが正しいかというのは、人によって答えは結構バラけるんじゃないかなと思ってます。あなたはどちらが正しいと思いますか?

私はふと考えてみて、どちらもあると思ったんですよね。普通に過ごしていてなんの理由も無く他者に害を与えることは無意味だから、そんな非合理的なことはしないのが自然だという意見。一方で、人間だって動物なのだから本能的に自分が生き残るためには他者を蹴落とすのが当たり前だという意見。

 

でももう少し思考を進めると、そもそも「善」「悪」とはどうやって区別するんだという疑問にもぶち当たると思います。「人を殺すこと」は基本的に悪ですが、自分や自分の大切な人を殺そうとしている人を殺すことは善のように思えます。正当防衛ってやつですね。また、戦国時代や戦争下においては人を殺すことが正義という価値観もありえます。

 

つまり、同じ客観的事実でも、何が善で何が悪かはその時代ごとの価値観に左右されるものにすぎないのです。ですから、人は生まれながらに善人か悪人か、決まっているわけがないのです。表題に対する私なりの答えは以上です。

 

ここまで読んでくださった方、お疲れさまでした。そしてありがとうございました。

 

以下は蛇足です。

即ち善人か悪人かは後天的に決まるということになりますが、後天的にどちらに転ぶかは「教育」によって決まると思います。生まれたときからやってはいけないことをしっかり教えられて大切に育てられてきた子はきっと善行を重ねる善人になるでしょう。生まれたときから銃を持たされ、目の前の人間を撃ちまくるように教えられた子はきっと誰彼構わず害を与える悪人になるでしょう。

 

以下は更に余談です。

私は昔暇なときに、Yahoo知恵袋で答えられそうな質問に片っ端から答えていくという善行を重ねていた時期があったのですが、その中で次のような質問を見つけました。

「もしも今の日本から人を殺すことを処罰する規定がなくなったら、どうなるのでしょうか。」

これはなかなか興味深かったですね。質問主は質問というより議論がしたいだけのような気がしますが。

私は、規定がなくなったからといって直ちに誰もが周りの人間を殺しまくりのアナーキー状態にはならないと思うんですよ。その理由は先程も述べたとおり、人間の善悪は教育によって決まると思うからです。それまでずっと人を殺してはいけないという教育を受けてきた人間が、ある日突然人を殺し始めるとは考えにくいです。ただ、教育が不十分な人間は必ず一定数存在すると思うので、そこから殺人が広まっていくと思います。周りの人間が殺され始めれば誰もが自分を守るために疑心暗鬼になり、殺されるかもしれないなら先に殺すしかないという思考にたどり着くと思います。こうやって書くとチープなデスゲームもののマンガみたい。

 

今度こそお疲れさまでした。