氷解

日々の思考を垂れ流すゴミ箱

自己分析とは何か

 

 もう4年以上前のツイートだが、知り合いのRT伝手でこんなものを発見した。

 

 

軽く調べたところTogetterにもまとまるほどバズったツイートらしく、個人的にも風呂場でボケーっと考えていたら興味が湧いたので書き記しておこうと思う。

 

まず、なぜ哲学女子曰く自己分析は不可能なのか?それは分析する自己を分析する自己が無限に発生してしまい完全に客観的な評価がわからないからだと思う(哲学には疎いので、もし違っていたら哲学の造詣が深い諸氏が指摘してくれると学が深まって大変ありがたいと思う)。

 しかし、結論としては自己に対する完全に客観的な評価というものは本来分かり得ないが完全に客観的な評価は自己分析とイコールではないし、就活では分かる必要もない。故に自己分析は可能である(面接官のウケを考えて捻じ曲げた自己分析は当然可能であるわけだが、そうではない)。

 

∵まず分かり得ないという部分について。

 この哲学女子は神の視点から見た自分の正確な評価というものが存在していることを前提に話をしている。そしてそれが本当に存在するかは置いておくとして、人間がその評価を知ることは不可能なのである。人間の内心は物理学的事象と異なり変化し続ける抽象的なものだからである。また、人間の内心を他の存在が知る術は今のところないからである。

 だから、ここでいう完全に客観的な評価に最も近い答えを出せるのは他でもない自分以外いないのである(仮に24時間365日、常にその人物を客観的に観察し続ける人物がいたとしても、その人物が認知しうるのは外面に現れた行動や発言から推認された内心にすぎないから)。

 したがって、”神”が認識する完全に客観的な評価は”自己”が行う自己分析とはイコールではないのである。

 

∵次に必要がないという部分について。

 哲学女子の論を借りれば自己分析をするとき、分析する自己と分析される自己が分裂し、分析する自己を分析する自己を分析できない現象に陥るから自己分析はできないとのことである(少なくとも私はそのように理解した)。

 何を言っているか分からないと思うので、具体例を挙げよう。「私は興味があること以外は我慢強く続けることができない飽きっぽい人間だ」という自己分析をしたとする。これは分析された自己である。これに対し「私が興味があることとは何か?」「我慢強く続けられないのは本当に飽きっぽいからなのか?」「この自己分析は自分の長所なのか、短所なのか?」といった意見を持つことは更なる深い自己分析にすぎず、分析した自己を分析しているわけではない。分析した自己を分析することというのは「自己分析した内容が真であるか偽であるか」自体を疑うことを指す。つまり「私は自分で自分を飽きっぽい人間だと分析しているが、それは私のより本質的な部分が無意識的に自分をそう思わせているにすぎないのではないか?」という分析である。

 これは端的に言えば分からないということになる。仮に分かるとすればそれは最初の自己分析が間違っていたのであり、自分で「これこそが自分の客観的評価だ」と思ったのであればそれが自分の中で最も客観的な自己内面分析であり、ひいては世界で最も客観的な自己内面分析であると結論付けるしかないからである。それが偽である可能性はあるが、偽であることを常に疑い続けていては永遠に自己分析は完結しない。

 自己分析は”自己”がこれで完結だと思ったところで完結させていいのである。なぜならそれこそが自己分析だからである。そしてその自己分析は就活で求められている自己分析と同義であろう。

 

 Togetterには『自己分析をすることは自分の中に強制的に自分を観測する別の存在を発生させる作業であり、それこそが他社と共同して生活する社会に求められている作業である』といった趣旨のツイートが引用されていた。これは私も賛同する。社会に出れば分析される自己役を自分が務め、分析する自己役を他者が務めるのだから、自己分析において分析する自己を分析することができないというのは社会でいえば他者の内心を分析することに等しく、それは不可能だからである。

 しかし他者の内心を自分なりに想像することは社会において必要不可欠であり、自分が他者からどう見られているか想像するプロセスが就活の自己分析において求められていることなのではないだろうか。

 

 

 

夜中に一気に勢いで書き上げたので、矛盾点や説明がへたくそな部分は挙げようとすれば枚挙にいとまがないと思われるが、前回のブログでも書いた通り、まずは完成させることが最重要であるから、今日はここらへんで終わっておこうと思う。

自分の中での完成は完全に客観的な完成に程遠いが、その繰り返しが自分の中での完成のレベルを高めるプロセスであると信じて。

今回も駄文を読んでくださった方がもしいれば、最大級の感謝を込めて。

ではまた次回。