Vtuberの本質について考える
1、Vtuberの本質とは何か?
こんにちは、ヒグラシです。
先日(と言ってもかなり前ですが)、Vtuber事務所に関するとある記事を読みました。
今日はこの記事から考えたことについて書いていこうと思います。
先に、参照記事のリンクを下に貼っておきます。
まあ記事タイトルからしてあまりよいニュースではないわけですが、私はVtuberが好きなので、つい気になって最後まで読んでしまいました。
上記記事は前後編になっており、内容も経済学に寄っているためなかなか読むのに抵抗感を覚える方もいるかと思いますが、私がこの記事で最も感心したのは、
「VTuber事務所は、キャラクターの”ガワ”、つまりイラストの権利を押さえているため、Youtuberや芸能事務所と違って、独立されたり引き抜きされたりするリスクが乏しい」というナラティブが既に市場では機能しなくなっている、という指摘です。
分かりにくいと思うので私なりの理解で噛み砕いて説明すると、Vtuberが生まれた黎明期においては、「VtuberをVtuberたらしめているのはいわゆる”ガワ”である」という考えが少なくとも経済市場においてはメインストリームであったため、投資家がYoutuber事務所や芸能事務所を投資対象とする際の懸念点である、所属インフルエンサーが抜けることで事務所の魅力が低下するおそれがVtuber事務所にはないことが強みとされていました。
なぜならば、Vtuberは中の人(演者)が”ガワ”を演じるが故にそのVtuberたり得るのであり、”ガワ”が使えなければ一切の活動ができないのであるから、”ガワ”の権利を持っている事務所とそれを演じる中の人の関係性は切っても切れないものとなるためです。
しかし、蓋を開けてみると、視聴者が求めるVtuberの本質は、全くの逆でした。
Vtuberにおける”ガワ”とは、あくまで中の人をよりキャッチーで親しみやすい存在として捉えてもらう初めの第一歩としてのツールにすぎないのであり、視聴者は”ガワ”を通して中の人を見ているのだということです。
それはつまり、Vtuber事務所は仮に”ガワ”に関する権利を持っていたとしても、中の人が抜けてしまえば、そこには何の価値もなくなってしまうということを意味します。また、中の人は仮に”ガワ”を利用する権利を失ってしまったとしても、それまで活動してきたことによって視聴者に知ってもらった自身の内面を、そのまま次の”ガワ”を通して発信していくことができるのであり、結局のところYoutuber事務所や芸能事務所に所属するインフルエンサーたちと本質的には何も違わないということです。
記事の中では、現に事務所所属のVtuberが卒業したとしても、いわゆる転生後のVtuberが視聴者からの根強い人気を維持しているという事象が多数観測されていることを紹介しており、世間的にもVtuberをVtuberたらしめているのは紛れもなく”中の人”であるということが明らかになったということなのだと思います。
2、Vtuberの本質に関するほかの具体例
私としては、Vtuberの本質が”ガワ”ではなく中の人にあるという点は、何も昨今のVtuber卒業、転生ラッシュの現象が観測されるよりも前、Vtuber業界の走りの時期から、いくつかの事例で観測されていたように思います。
その具体例の一つとして挙げられるのが、「ゲーム部プロジェクト」です。
ゲーム部プロジェクトは、4人のキャラクターが架空の部活「ゲーム部」としてYoutuberチャンネルを運営しているというコンセプトのVtuberグループで、主にVtuber黎明期といえる2018~2019年ころに活躍していました。詳細は省きますが、このチャンネルは、運営側とのトラブルにより、Vtuber全員の中の人(演者)が交代する事件が起きました。
Vtuberの引退・卒業自体は当時からいくつか事例はあったと思いますが、ゲーム部が特徴的であったのは、その運営会社である株式会社Brave groupが、Vtuberの”ガワ”はそのままに、新しい演者に交代をしたという点です。
そのため、ゲーム部の4人は2019年に全員が2代目声優に後退して以降も、引き続き活動を続けていたのですが、視聴者数の低迷は著しく、翌2020年に事実上の解散となりました。
この結末は、要するに視聴者が魅力を感じていたのは、あくまで”ガワ”を通して発信される中の人たちの個性から形作られる「ゲーム部」の雰囲気だったのであり、中の人が代わった場合、それは全くの別物だということを如実に表していたように思います。
私がここから面白いと感じたのは、Vtuberの演者交代は、アニメの声優交代などとは本質的に異なるということです。声優は、アニメキャラクターという”ガワ”、役割があらかじめ決まっている中で、それになりきって演じるものであるため、”ガワ”の方が主軸ですが、Vtuberは中の人の個性を発揮し、それをエンターテインメントに昇華するコンテンツである以上、中の人が主軸になるものだからです。
共通して言えることとして、キャラクターと演者のシナジーによって生み出される価値は間違いなくあるはずで、それはアニメの声優交代であっても、Vtuberの演者交代であっても、失われてしまうということはあるのでしょうが、それらは全くの別物である点は覚えておかなければなりません。
3、まとめ
ということで、本記事のタイトルに書いた「Vtuberの本質」がなんなのか、その結論はすでに申しあげたとおりなのですが、最後に一つ。
私が一番最初に知ったVtuberはキズナアイさんなのですが、キズナアイさんはVtuber界の先駆者として、ニュース番組などでもその姿を見かけることがありました。その中で、ある番組の女性ニュースキャスターの方(詳細を忘れてしまったので、もしわかる方がいらっしゃったら是非教えていただきたいのですが)が、「Vtuberは自分の理想の姿になって活動することができるツールということですね。そして、誰でも好きな姿になれるということは、それで何を発信していくかという内面の部分がより一層見られることなのかもしれません。」といった発言をしていました。当時も、「この人はVtuber文化にほとんど触れたことがない方だったろうに、ちゃんと本質的な所を理解していてすごいな」と思った記憶がありますが、それを再認識した出来事でした。
天ノ弱/164 feat.GUMI【楽曲考察】
こんにちは、ヒグラシです。
今日は164さんの「天ノ弱」を考察したいと思います。
10年以上前から大好きな楽曲で、学生の時分はギターでコピーしたりもしましたが、最近改めて聞いて、「あれ、こんなに切なくて深い歌詞だったっけ」と感じるものがあったので、筆を執りました。
まずは歌詞の引用から。
僕がずっと前から思ってる事を話そうか
友達に戻れたらこれ以上はもう望まないさ
君がそれでいいなら僕だってそれで構わないさ
嘘つきの僕が吐いたはんたいことばの愛のうた今日はこっちの地方はどしゃぶりの晴天でした
昨日もずっと暇で一日満喫してました
別に君のことなんて考えてなんかいないさ
いやでもちょっと本当は考えてたかもなんてメリーゴーランドみたいに回る
僕の頭ん中はもうグルグルさこの両手から零れそうなほど
君に貰った愛はどこに捨てよう?
限りのある消耗品なんて僕は
要 ら な い よ僕がずっと前から思ってる事を話そうか
姿は見えないのに言葉だけ見えちゃってるんだ
僕が知らないことがあるだけで気が狂いそうだ
ぶら下がった感情が 綺麗なのか汚いのか僕にはまだわからず捨てる宛てもないんだ
言葉の裏の裏が見えるまで待つからさ
待つくらいならいいじゃないか進む君 と 止まった僕の
縮まらない隙を何で埋めよう?
まだ素直に言葉に出来ない僕は
天性の弱虫さこの両手から零れそうなほど
君に渡す愛を誰に譲ろう?
そんなんどこにも宛てがあるわけないだろ
ま だ 待 つ よも う い い か い
この曲を端的に言うと、恋人(君)から別れを切り出された僕は、未だ捨てられない貴女への愛をどう処理すればいいんだろうか、という嘆きの歌ですよね。
「天邪鬼」とは思っていることと逆のことを言ってしまう人を指す言葉ですが、「天ノ弱」とは歌詞内でも言及されているとおり、「(君に素直な気持ちを伝えられない)天性の弱虫」である「天ノ弱」を意味し、この2つが掛かっているわけですね。
1番
僕がずっと前から思ってる事を話そうか
友達に戻れたらこれ以上はもう望まないさ
君がそれでいいなら僕だってそれで構わないさ
嘘つきの僕が吐いたはんたいことばの愛のうた
「ずっと前から思ってる事を話そうか」と言っているにもかかわらず、本当は復縁したいという言葉を伝えることで、友達未満の関係になってしまうことが怖くて、取り繕って「友達に戻れたらこれ以上は望まない」とありきたりな言葉を言ってしまう主人公の天ノ弱さが出ている冒頭ですね。
「君がそれでいいなら」とあくまで君の選択に合わせようとしているところにもうっすらとした未練が感じられます。
今日はこっちの地方はどしゃぶりの晴天でした
昨日もずっと暇で一日満喫してました
別に君のことなんて考えてなんかいないさ
いやでもちょっと本当は考えてたかもなんて
「こっちの地方」とは文字どおり自分の地域のことを指しますが、主人公の心情にも掛かっているのだと思います。心の中は別れの悲しさで土砂降りだけど、それを隠すように晴天の報告をします。もしかすると、遠距離恋愛の可能性もあるでしょうか?
同じように、別れの悲しさで何もする気が起きず、暇だったにもかかわらず、一日満喫していたと嘘の報告をします。
嘘を見抜かれたくなくて、「別に君のことなんて考えてなんかいない」と言いつつも、言い過ぎたと思って「ちょっと本当は考えてたかも」と中途半端な言い方をしているのはやはりまだ未練があるからなのでしょうね。
メリーゴーランドみたいに回る
僕の頭ん中はもうグルグルさ
本心と言葉がごちゃごちゃになって、何を伝えればいいのかがずっと頭の中で堂々巡りになる主人公の心情が表現されています。
1サビ
この両手から零れそうなほど
君に貰った愛はどこに捨てよう?
限りのある消耗品なんて僕は
要 ら な い よ
別れた君への未練は断ち切らなければならない、君からもらったたくさんの愛はどこかに捨てなければならない、でもどうやったら忘れられるのか、捨て場所が見つからずに悩む主人公の心情が表現されています。
「限りのある消耗品」=いつか別れの時が来たら捨ててしまわなければならない愛だと思います。そんなものはいらない、捨てる必要がないずっと続く愛が欲しいという気持ちの裏返しですね。
2番
僕がずっと前から思ってる事を話そうか
姿は見えないのに言葉だけ見えちゃってるんだ
僕が知らないことがあるだけで気が狂いそうだ
ぶら下がった感情が 綺麗なのか汚いのか
2番の歌詞に入ります。私は最初、「姿が見えないのは、彼女と別れて日常的に会うことが無くなってしまったからだと思いますが、言葉だけ見えちゃってるんだとは、どういう意味だろう」と行き詰りました。
ただ、「ずっと前から思ってる事」という前提を含めると、やはり遠距離恋愛をしていたと考えるのが良いのかもしれません。
「姿は見えない」=遠距離恋愛で直接会うことが叶わない
「言葉だけ見えちゃってる」=代わりに電話やメールで話をすることはできる、むしろ電話やメールだけでも君の本当の気持ちが見えてしまう、ということなのかもしれません。
僕が知らない君がいると考えるだけで気が狂いそうになる、行き場がなく宙ぶらりんになったこの感情は、きれいな感情(愛)なのか、汚い感情(嫉妬、独占欲)なのか、自分でもわからない主人公。
僕にはまだわからず捨てる宛てもないんだ
言葉の裏の裏が見えるまで待つからさ
待つくらいならいいじゃないか
君に抱いている複雑な感情を捨てるべきかどうかも分からず、捨てる宛てもない、つまり忘れる方法も見つからないという気持ちが述べられます。
「言葉の裏の裏」について、「言葉」とは自分への気持ちがまだあるように思わせる君の言葉ですが、その裏に、自分への愛情が次第に冷めていく「言葉の裏」が読み取れてしまう。だから、その更に裏にまだ自分への愛情が残っているんじゃないか、それが見えてくるまで別れないで欲しいという未練が感じられます。
しかし、僕に別れを告げる君は、そんな淡い期待を持たせることはしないんだという様子が窺えます。
落ちサビ
進む君 と 止まった僕の
縮まらない隙を何で埋めよう?
まだ素直に言葉に出来ない僕は
天性の弱虫さ
進展しない2人の関係に区切りをつけ、新たな人生に足を進める君と、未だ君との関係を引きずって前に進むことができない僕の差は開いていくばかり。その差を埋めるためには、自分も新たな好きな人を見つけて前に進むしかないが、その現実を受け止めることができない僕は、その答えを自分で悟ることを拒否しています。
それが嫌ならば、君にもう一度復縁したいと伝えるしかないのに、その本心を素直に伝えるだけの覚悟も持てない僕は、天性の弱虫だと自虐しています。
ラスサビ
この両手から零れそうなほど
君に渡す愛を誰に譲ろう?
そんなんどこにも宛てがあるわけないだろ
ま だ 待 つ よも う い い か い
1サビでは、「君に貰った愛はどこに捨てよう?」だったのが、ラスサビでは「君に渡す愛を誰に譲ろう? 」となっています。君から貰った愛は捨てなければならないと悟っているのに、君に渡す愛は捨てるのではなく、誰かに譲ろうとしているところが深いですね。君にとっての新しい誰かを通じて、僕が君をどれだけ愛していたかも理解ってほしいという気持ちは、やっぱり未練たらたらな様子がよく伝わってきます。
そして、僕以上に君を愛している誰かなんているわけがない、僕から君への愛を引き継いで託せる誰かなんて宛てがあるわけないと啖呵を切ったにもかかわらず、結局自分の取る行動は「まだ待つよ」と、どこまでも君任せになってしまうんですよね。
最後の「もういいかい」も含めて、徹頭徹尾、弱虫で臆病な僕の心情がよく描かれていて、胸に刺さる歌詞だなと思います。
以上、私が青春時代に何度も何度も聴いた恋愛ボカロソングの名作の一つ、『天ノ弱』の個人的楽曲考察でした。
曲調は違うのですが、素直に気持ちを出せない主人公の切ない心情を描いた楽曲ということで、Junkyさんの『メランコリック』も、この曲が好きな人は刺さるかもしれません。
それでは。
ハゼ馳せる果てるまで/ずっと真夜中でいいのに。【楽曲考察】
どうもヒグラシです。
私はずとまよの曲が大好きで、一番好きな曲はどれかと聞かれるとなかなか返答に窮するのですが、今回は最近自分の中で再燃している『ハゼ馳せる果てるまで』について自分なりの解釈を書きなぐってみようと思い、ひさびさに筆を執りました。
考えれば考えるほど深くて切なくて、本当に大好きな曲です。
『ハゼ馳せる果てるまで』
曖昧な解決 どう踠いても
単純問題解答ならば
表 裏 使い切って
遠ざかる練習 繰り返すの会いたいは有限 壊さないように
確かめてしまう癖を
嫌がらないで もう助けてよ
また スパイラルに絡まるもう 君どころじゃないよ
春も消毒も 終わらせたいから
人口知能 使って 引き止めたりしないで
簡単に正解 ばら撒かないでいてね泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ それで消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ
綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 忘れてしまうのに。。君の欠点ばかり漁って
孤立無援の罠を潜って
深い曹操に自ら溺れて
涼しい顔で笑って
そっと涙を零すのなんで
渡りたくないのにどうしてずるいよ ずるいよ
痛い痛いの飛んで行けって
もういいよ もういいよ
君の意味になれないなら
上昇気流 奪って 引き止めたりしないで
簡単に可能性 与えないでいてね泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ それで消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ
綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 忘れてしまうのに何が抗うの 何を憎めるの
預けないでいてよ泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ 指で消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ
綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 逃れてしまうのに当てはまってても 抗っていたいよ
今宵も水に 溶けてお休み
罰があってても 振り向かないよ
単純に慎重に 泳いでいたいの
当てはまってても 争っていたいよ
今宵も水に 溶けておやすみ
泥まみれでも 信じさせてよ
異なる自分を愛していたいの
(公式YoutubeチャンネルのACAねさんのコメントより引用)
https://www.youtube.com/watch?v=ElnxZtiBDvs
【PVについて】
今回の舞台は宇宙です。主人公の子の雰囲気やイントロの感じも相まってマクロスFを彷彿とさせます(マクロスFを見たことはない)。
それでは早速、頭から歌詞を見ていきましょう。
◎イントロ
曖昧な解決 どう踠いても
単純問題解答ならば
表 裏 使い切って
遠ざかる練習 繰り返すの
冒頭から、この曲の本質的なテーマを表しています。「曖昧な解決」とは、自分と彼が別れる未来がそう遠くないことに薄々気づいていながら、ずるずると今の関係を続けていくことを指しているのだと思います。
この曲のテーマについてですが、私は主人公の女の子が彼との遠距離恋愛を終わらせたいと悩んでいる歌だと思っています。ずとまよで宇宙と言えばサターンが出てくる方も多いと思いますが、この曲のMVにも多くの点でサターンを彷彿とさせるシーンがあります。サターンは自分と彼を地球と土星に例えた遠距離恋愛の曲であると解釈している方が多いのかなと思いますが、私はこの曲がサターンの続きを歌った曲だと考えています。
好きなのに遠距離のためなかなか会えない彼との関係を続けることが辛い、でもこのままの関係をずっと続けていくのが本当に幸せなのだろうか、という悩みを歌った曲なのだと思います。
「どう踠いても 単純問題解答ならば」は、このままどう抗っても単純な問題と解答でしかないことは明らかだということ。つまり「どうしたら今の彼とのあいまいな関係を変えることができるのか」という問いと、「自分が彼のことをあきらめて別れを切り出すしかない」という解答です。
「表 裏 使い切って 遠ざかる練習 繰り返すの」は、彼への未練を断ち切るために、できる限りの表(建前)と裏(本音)を使いこなして、彼との距離を徐々に広げていこうと日々を過ごしているのだと思います。
◎1番Aメロ
会いたいは有限 壊さないように
確かめてしまう癖を
嫌がらないで もう助けてよ
また スパイラルに絡まる
「会いたいは有限 壊さないように」は、本当は会いたい気持ちが毎日止まらないけれど、それを素直に伝えれば彼に面倒な女だと思われ、関係が壊れてしまうことが目に見えているから、ここぞというときにしか使えない=「有限」ということ。
「確かめてしまう癖を 嫌がらないで もう助けてよ また スパイラルに絡まる」は、彼の気持ちが離れて行ってしまわないか不安で、つい言葉や行動でそれを確かめてしまうけれど、それで彼に嫌がられるのは避けたい、という相反する感情がずっと自分の中でぐるぐると駆け巡っている。
◎1番Bメロ
もう 君どころじゃないよ
春も消毒も 終わらせたいから
人口知能 使って 引き止めたりしないで
簡単に正解 ばら撒かないでいてね
「もう 君どころじゃないよ」。私はここが実にACAねさんらしくて深い歌詞だなと思うのです。放っておくと、つい君のことばかり考えてしまう、だから君のことを考えないようにするために必死で、君のことなんて考えている暇がないよ、ということなのかなと思いました。
「春も消毒を終わらせたいから」は、春=彼との青春、消毒=彼への気持ち(毒)を消し去ること、と捉えました。彼との付き合いをやめて、彼への気持ちを早く断ち切ってしまいたいという苦悩です。
「人口知能 使って 引き止めたりしないで 簡単に正解 ばら撒かないでいてね」は、まるで人工知能で分析したかのように、自分が求めていた言葉(彼が自分を愛してくれていると思わせる言葉=正解)を簡単に口にしないでくれ、彼への気持ちを諦められなくなるからという意味です。彼は自分の扱いがよく分かっている、だからこそずるずると諦められずに付き合い続けてしまっている。口から的確なセリフが出てくることを「人口知能」と書く工夫がACAね節ですね。
◎1サビ
泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ それで消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ
綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 忘れてしまうのに。。
「泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か 覚えた息継ぎをして」。サビのメロディや歌詞はこの曲でも特に大好きなの所なのですが、解釈しようとするとなかなか難解です。
おそらく「泳ぐ」は彼との関係を長続きさせようとすること、「溺れる」は彼との関係を断ち切ってしまうことだと思います。彼とのこんな曖昧な関係を長続きさせる必要はないと本音では分かっているし、彼に依存している弱み(傷)があるわけでもないのに、いつの間にかだらだらと関係を続けていくための小手先のふるまい(息継ぎ)をすることは覚えてしまった。
「先に溺れるよ それで消し切れるなら どこまでも ただ 遠くへ」。だから自分から先に溺れる(彼と別れる)ことを選ぶよ、それでこの苦しい思いを消し切れるのならば、泳ぐことをやめて、ここではない遠くへ行きたいと思うよ。
「綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま」。綺麗にこの関係を終わらせるために、建前の言葉を伝えようと思うよ、彼との思い出の価値を損なわないようにしたまま。
「おいでって おいでって おいでって なんで 明日にはもう 忘れてしまうのに。。」。自分は覚悟したのに、彼は今日も優しく「おいで」と声を掛けてくる。なぜ忘れさせてくれないのだろうか。どうせあなたは、明日にはもう私との夜なんて忘れてしまうのに。。
切ない歌詞ですね。この世界観と奥深さが本当に好きです。「忘れてしまうのに。。」と句点を2個並べて三点リーダーよりもライトな余韻、物悲しさを表しているところも好きです。MVでここのニラちゃんがすごく悲しそうな顔をしながら水に飛び込むシーンも印象的でした。
◎2番Aメロ
君の欠点ばかり漁って
孤立無援の罠を潜って
深い曹操に自ら溺れて
涼しい顔で笑って
そっと涙を零すのなんで
渡りたくないのにどうして
「君の欠点ばかり漁って」は君のことを嫌いになろうと、欠点を探そうとしている。
「孤立無援の罠を潜って」は彼と別れて一人になってしまう未来の自分に対する不安を乗り越えようとしている。
「深い曹操に自ら溺れて」、まるで三国志の曹操のように知略を巡らせ理屈で気持ちに整理を付けようとしている。
「涼しい顔で笑って そっと涙を零すのなんで」、私が気持ちを伝えても君は怒ったりせず、涼しい顔で笑っていたのに、と思えば涙をこぼして悲しんでいる。もう私には君の本当の気持ちが分からない。
「渡りたくないのにどうして」、このまま君という名の海を泳いで渡り切ることはやめようと決めていたのに、どうしてそんな顔をするのだろう。
こんな感じでしょうか。ここも解釈が難しいですね。個人的には不完全だと思っているので、また自分の中で腑に落ちる解釈が思いついたら追記します。
「漁って」「潜って」「溺れて」「涼しい」「零す」と、ワンフレーズごとに水に関係ある言葉でまとめているのがおしゃれです。
いきなり三国志の曹操が出てきたところもおそらく言葉遊びなのだと思いますが、そこまでは分かりませんでした。「想像」と「曹操」を掛けているのかな?
◎2番Bメロ
ずるいよ ずるいよ
痛い痛いの飛んで行けって
もういいよ もういいよ
君の意味になれないなら
上昇気流 奪って 引き止めたりしないで
簡単に可能性 与えないでいてね
「ずるいよ ずるいよ 痛い痛いの飛んで行けって」は、私の心の痛みを癒してくれるおまじないのような、君の言葉がずるいという意味。そんなのはまやかしで、本当は痛みが消えることはないのに。
「もういいよ もういいよ 君の意味になれないなら」は、君にとっての大切な人、つまり君の人生の意味になれないのであれば、もうこの関係は終わらせてしまっていいよ、と吹っ切れている様子です。
「上昇気流 奪って 引き止めたりしないで 簡単に可能性 与えないでいてね」。上昇気流とは、彼への思いを吹っ切って離れさせてくれる気持ちのこと。それを奪って自分のことを引き止めないで欲しい、まるであなたとの関係が続くような期待を持たせる言葉を簡単に与えてこないで欲しいという意味。
これはこれでしっくりくるのですが、サビで彼への思いを断ち切ることを「溺れる」と表現したのに対し、ここでは空に飛び立つことという様子で表現しているのが少し考察不足かもと感じてます。もし「溺れる」が彼との曖昧な関係に甘んじる決心をするという意味なのだとしたら、溺れて沈んでいく様子と飛び立つ様子が綺麗に対比になるのですが、サビの歌詞の雰囲気からしてそれだと説明が上手く出来ない気もしています。
◎2サビ
泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ それで消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ
綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 忘れてしまうのに
基本的には1サビと同じですね。唯一違うのは、最後の「明日にはもう 忘れてしまうのに」に句点が付いていない部分です。1サビのところではまだ彼の言葉に戸惑っている様子があったのに対し、ここでは彼の言葉を振り切って前に進もうという気持ちが勝ってきているのかなと思いました。
◎Cメロ
何が抗うの 何を憎めるの
預けないでいてよ
「何が抗うの」は、彼への気持ちが断ち切れない理由はどこにあるのだろうという意味。
「何を憎めるの」は、彼への気持ちを断ち切ろうとする理由はどこにあるのだろうという意味。
「預けないでいてよ」は、この関係の行く末を私に決めさせないでよ、という意味だと思いました。主語がないのでここは解釈が難しいですね。
◎落ちサビ
泳ぐ必要も 傷も無いのに何故か
覚えた息継ぎをして
先に溺れるよ 指で消し切れるなら
どこまでも ただ 遠くへ
1サビ、2サビでは「それで消し切れるなら」だったのが、「指で消し切れるなら」になっています。指で彼との関係を消し切る=彼の連絡先や、彼とのLINEのトーク履歴などを消し去って、それでこの気持ちが断ち切れるのであれば、思い切って進もうということだと思います。
◎ラスサビ
綺麗事 言うよ 価値を値付けたまま
おいでって おいでって おいでって なんで
明日にはもう 逃れてしまうのに
ここも1サビ、2サビと基本的には同じ。「明日にはもう 忘れてしまうのに」が彼のことを表していたのに対し、「明日にはもう 逃れてしまうのに」は、自分のことを表しているんだと思います。明日にはもうこの関係を終わらせると決心しているのに、なぜ彼は最後まで嫌いにさせてくれないのだろう、ということですね。
◎アウトロ
当てはまってても 抗っていたいよ
今宵も水に 溶けてお休み
罰があってても 振り向かないよ
単純に慎重に 泳いでいたいの
当てはまってても 争っていたいよ
今宵も水に 溶けておやすみ
泥まみれでも 信じさせてよ
異なる自分を愛していたいの
彼との関係を続ける方が心地いいのだとしても、その現状に抗っていたいと思う。抗い疲れたら今日も一旦休もう。この自分の選択が咎められるべきものだったとしても、自分はもう振り向かないよ。ただ流されるように漫然と付き合うのではなく、慎重に自分の気持ちを確かめながら付き合っていきたいだけだから。もし彼との関係を続けていた方が良かったと悔いることがあっても自分の気持ちと戦っていきたいと思う。戦い疲れたら、一旦休めばいい。ハゼのように泥まみれになりながら進む自分だけど、この選択が間違いではなかったと信じさせてほしい。今までと違う、一歩前に進んだ自分のことを愛していたいと思うよ、というアウトロです。
泥臭いけれど前向きで、勇気をもらえる曲だと思います。
こういうのって、正解があるわけじゃないので、みなさんも何か自分なりの解釈を見つけられたら何気ない曲も味わい深いものになるのではないでしょうか。他の人の解釈を見ると、自分の気づかなかった側面から曲を見ることができるので、そういうのは素敵だなと思います。
それでは。
※PVに関する考察は、また追記予定。たくさん書きたいことがあるので。
時間の感じ方は楽しいときと辛いとき、どちらが長い?
こんばんは、ヒグラシです。
テレビで、もうじきロシアのウクライナ侵攻から1年が経つというニュースが流れていました。侵攻開始とされているのが2022年2月24日とのことなので、あと2週間ほどで丸一年です。
私はそれを見て「もう一年もやっているんだな」と思いましたが、ニュースの中でインタビューを受けていたブチャの方が、涙ながらに「この戦争で夫を亡くしました。戦争が始まってまだ一年なんです」と言っているのを聞いて少し思うところがあり、風呂に入りながら標題のようなことを考えていました。
1 ジャネの法則へのアンチテーゼ
ジャネの法則というものがあります。Wikipediaによればフランスの哲学者、ポール・ジャネが発案した、人間の時間の感じ方に関する心理学的現象に対する一つの考え方です。
よく「年を取ると一年が短く感じる」と言われますが、その現象をジャネは以下のように説明しました。「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例する」と。つまり5歳の子供にとって1年は人生の20%を占める長い時間だが、50歳の大人にとって1年は人生の2%に過ぎないから、年を取ると1年が短く感じるのだと。
私がこの話を知ったのはもう10年くらい前になりますが、「ほおーなるほどなあ」と感心したのを覚えています。そしてさっき風呂に入る時まで何の疑問も持ちませんでした。
しかし、私は湯船につかりながら、唐突に「この法則は間違っているのではないか?」と思いました。なぜならば、ジャネのいう「生涯」という分母は年を重ねるごとに大きくなるからです。
上にあげた具体例を使って説明するならば、5歳の子供にとっての「生涯」とは客観的には5年であり、50歳の大人にとっての「生涯」とは客観的には50年ということです。何を当たり前のことを言っているんだと思うかもしれませんが、ジャネの説明はあたかも「生涯」という枠の大きさが初めから固定されていて、それを年齢で分割するから1年あたりの比率が小さくなると言っているにすぎないということです。
仮に、生まれてから現在までの記憶が全て漏らさず頭に残っている完全記憶能力の持ち主がいたとしましょう。その人にとっては、「生涯」の枠は5歳の時は5年、50歳の時は50年なのですから、5歳の時の1年は当然5÷5=1ですし、50歳の時の1年は当然50÷50=1です。つまり記憶が1秒1秒刻々と脳に刻み込まれていることを前提にすれば、時間の感じ方は一生変わらないはずだということです。
2 「記憶に残らない」ということの意味
では、なぜ我々は年を取ると1年が短く感じるのでしょうか。「人間は昔の記憶を忘れていくから」でしょうか?
それは違います。仮に、直近80分の記憶しか頭に残らず、それよりも昔のことは古いものから消えていってしまう、悲劇の人がいたとしましょう。その人にとっての人生の記憶、これはつまりジャネのいうところの「生涯」と同義になるわけですが、これはジャネの説明通り80分という枠組みから固定されてずっと動かないわけです。ずっと動かないということは、その人にとって直近5分の記憶というのは、常にその人の人生の5/80=6.25%であり、その人の時間の感じ方もずっと変わらないはずだからです。
ちなみに、なぜこんな分かりにくい数字で例えたのか気になる人は、「博士の愛した数式」という小説を読んでみることをオススメします。
じゃあ一体なぜ1年が短く感じるんだ、これはそう思い込んでいるだけなのか?
それも違います。答えは「新しいことが記憶に残らなくなっていくから」です。
「は?」と思いましたか?
我々人間は目覚ましく発展する技術の進歩によって自然の驚異から解き放たれ、整備された社会や法によって生命が脅かされない安全な日々を過ごしています。しかしそれは同時に刺激のない生活に繋がり、やがて「慣れ」「飽き」というぜいたくな悩みに苛まれることになります。
昔はワクワクでいっぱいだった電車のお出かけも、お気に入りのラーメン屋の味も、学校も、仕事も、全部そのうち慣れてきてしまうのです。日々の中に占める「慣れ」の割合が大きくなっていくと、一日の感情の動きが小さくなり、感情の動きが小さいと記憶にも残らない、記憶に残らないから1年を振り返った時に「もう一年も経ったのか」と思う訳です。
3 楽しいときと辛いとき、どちらが長い?
ここまで話せば、いよいよ記事のタイトルにもなっている本題です。本題です、と仰々しく言いましたが、こればっかりは人それぞれだというほかないです。雑な結論で申し訳ない。
ですが、一般的には「楽しい時間はあっという間だね」「辛いときは時間が長く感じるよ」と言ったりします。私の体感としても「辛いとき」の方が長く感じる気がします。私がこれまで長々話してきた考え方に基づけば、時間を長く感じるということはその分だけ記憶が強烈に残っているということです。記憶に残るということは、それまでの人生での経験が少ない、慣れていないということになりますよね。
だからといって、楽しんでいるときの記憶が全然残っていない人が多いとまで主張するつもりはありませんよ。だからこそ、結論は人それぞれだと思います。
ただ、もしかすると楽しい時間をあっという間に感じるということは、それだけ幸せな人生を送っているということなのかもしれませんね。
ウクライナの方々にとってこの一年は、どのくらい長いものだったのでしょうか。これから先の一年はどのくらい長く感じるのでしょうか。
早く平和が戻ってほしいと、そんなことを思いました。
ブログタイトル『氷解』について
こんばんは、ヒグラシです。
ただいまの時刻は日付変わりまして、2023年1月7日(土)の午前1時45分になります。
残業からの飲み会でこんな時間になってしまいましたが、ブログを書く癖をつけないといつまで経っても定着しないので気合いで書いてます。
といっても、気合いを入れた記事を書ける元気も足りないので、今回はこのブログのタイトルについて軽くお話ししたいと思います。多分興味ない方しかいないと思いますが、物好きな方がいたら読んでもらえたら幸いです。
私は昔からアニメを見るのが好きで、いまでも仕事が忙しくても毎クール一本は見るようにしているのですが、私が最も好きなアニメが「氷菓」というタイトルなのです。
「氷菓」は2012年に京都アニメーションさんによってアニメ化された作品で、米澤穂信さんという方の同タイトルの小説が原作です。ジャンルは青春ミステリーといったところでしょうか。
ミステリーと聞くと、多くの方はどんな物語を想定するんでしょうか。コナン・ドイルやアガサ・クリスティをイメージする方が多いのかもしれません。しかし、「氷菓」という作品で扱われるミステリーは殺人事件のような物々しい内容ではなく、あくまで主人公たちが学園生活を送る上で体験していく不思議や謎といった、日常ミステリーであるところが特徴です。
一方で、青春ミステリーと銘打っている通り、日常ミステリーは作品の魅力の半分にすぎず、事件を解決していく中で主人公たちが恋愛や自分のアイデンティティー、在り方について悩む様子を描いた青春学園モノという側面もあります。
そして何より、原作の魅力を存分に映像化してくださった京都アニメーションの凄さを感じることができる作品でもあります。
「氷菓」については単独記事を公開するつもりなのですが、いざ書き始めると書き足したいことや書きなおしたいことが無数に出てきてしまい、去年書き始めたにもかかわらず今も下書きに塩漬け状態です。しかし、完璧を目指すよりまず終わらせることが大事だと思うので、今年中には上げたいなと思います。
長くなりましたが、私はブログのタイトルを考えるときに「ひょうか」という文字列を入れたいなと思ったのです。そこで、「氷解」という単語を想起しまして、日常生活で感じたことや些細な疑問への意見を自分なりに書いて記事に昇華していくこのブログのコンセプトが、氷が解けていく様子にぴったりだなと思い至ったわけです。
という訳で、今回はブログのタイトルについて書いてみました。
本当はもっとタイトル負けしないような思慮深く興味深い考察記事を上げたいのですが、筆力と感受性と思考力が不足していることを実感する日々ですね。
今日はこんなところで。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
おやすみなさい。
『星座になれたら』から読み解くぼ喜多の尊さ
あけましておめでとうございます。ヒグラシです。
2023年はTVアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」第2期を全力で応援していきたい、そう思わせるくらい衝撃を受けた作品でした。寒くなってきた時期にとびきりアツい青春を見せてもらった気がします。
そんな中、ぼざろ最終話が昨年のクリスマスイブの24時にAbemaTVで放送されたわけですが、Aパートのライブシーンは素晴らしかったですね。ハイクオリティな演奏シーンを一曲見せてくれるバンドアニメは最近増えてきましたが、たっぷり尺を使って複数曲を繋ぎまで見せてくれるアニメは自分は見たことがなかったので、その丁寧さに脱帽しました。ぼっちちゃんの心情描写も相まって、自分が目の前で実際に見ているような、リアルタイムに進行していくライブ感・没入感を体験できたところが良かったです。
今回はライブで演奏したうちの二曲目「星座になれたら」を考察していきたいと思います。
まずは歌詞から。
もうすぐ時計は6時
もうそこに一番星
影を踏んで 夜に紛れたくなる帰り道
どんなに探してみても
一つしかない星
何億光年 離れたところからあんなに輝くいいな 君は みんなから愛されて
「いいや 僕は ずっと一人きりさ」
君と集まって星座になれたら
星降る夜 一瞬の願い事
きらめいて ゆらめいて 震えてるシグナル
君と集まって星座になれたら
空見上げて 指を差されるような
つないだ線 解かないで
僕がどんなに眩しくても
もうすぐ時計は8時
夜空に満天の星
何億光年 離れたところにはもうないかもしれない月が綺麗で 泣きそうになるのは
いつの日にか 別れが来るから
君と集まって星座になれたら
彗星みたい 流れるひとりごと
消えていく 残像は 真夜中のプリズム
君と集まって星座になれたら
切なる願い 誰かに届いたら
変われるかな 夜の淵を
なぞるような こんな僕でも
遥か彼方 僕らは出会ってしまった
カルマだから 何度も出会ってしまうよ
雲の隙間で
君と集まって星座になれたら
夜広げて 描こう絵空事
暗闇を 照らすような 満月じゃなくても
だから集まって星座になりたい
色とりどりの光 放つような
つないだ線 解かないよ
君がどんなに眩しくても
「ギターと孤独と蒼い惑星(ほし)」や「フラッシュバッカー」の歌詞「まるで星屑みたいだと」もそうでしたが、ぼっちちゃんは宇宙や星を題材にした曲が多い気がしますね。私も好きです。
1 ぼっちちゃんから喜多ちゃんへのメッセージ説
この曲はぼっちちゃんが喜多ちゃんに向けて書いた歌詞という解釈がしっくりくる気がします。「僕」がぼっちちゃん、「君」が喜多ちゃんですね。
いいな 君は みんなから愛されて
「いいや 僕は ずっと一人きりさ」
みんなから愛され、ちやほやされる喜多ちゃんを見て、ぼっちちゃんは「自分とは違う」と思ってしまう訳です。
みんなに優しい喜多ちゃんは、ぼっちちゃんにも声を掛けてくれますが、「僕はずっと一人きりさ」と答えます。
君と集まって星座になれたら
星降る夜 一瞬の願い事
きらめいて ゆらめいて 震えてるシグナル
君と集まって星座になれたら
空見上げて 指を差されるような
つないだ線 解かないで
僕がどんなに眩しくても
そんな憧れの存在である喜多ちゃんと一緒にバンドをやって、キラキラした世界を見たい、ここはそんなぼっちちゃんの気持ちが表れていると思います。「星座」が結束バンド、 「つないだ線」はぼっちちゃんと喜多ちゃんの絆ですね。「僕」が「君」の眩しさについていけず、陰になってしまっても手を離さないで欲しいと願っています。
君と集まって星座になれたら
切なる願い 誰かに届いたら
変われるかな 夜の淵を
なぞるような こんな僕でも
二番のサビです。「切なる願い」はぼっちちゃんの願い、つまりぼっちちゃんがバンドをやる理由である「みんなの結束バンドを最高のバンドにしたい」(アニメ第8話)ですよね。
そうすればこんな僕でも輝けるかもしれない。
「夜の淵」の意味が難しかったんですが、「淵」には中心から離れた所という意味の他に、水の流れがゆるやかで深くなっているところという意味もあるそうです。夜の中でもひと際暗く、流れがよどんだ場所にいる自分でも輝けるだろうか、という意味だと思います。
2 喜多ちゃんからぼっちちゃんへのメッセージ説
さて、そんなぼっちちゃんから喜多ちゃんへの熱いメッセージのような曲ですが、私は逆に喜多ちゃんからぼっちちゃんへのメッセージという解釈もアリだなと思っています。作品の設定上、歌詞を書いているのはぼっちちゃんですが、歌うのは喜多ちゃんなのでそのような解釈も個人的には素敵だなと思います。
喜多ちゃんはみんなに愛される人気者ですが、喜多ちゃん自身は少し複雑な思いも抱えています。勉強も運動もできて人望もあって、カラオケも得意な自分だけど、どれもそこそこ止まりであり、ぼっちちゃんのように特別な才能はない。そんな自分を変えて、バンドでみんなと同じ夢を追ってみたいと思い、結束バンドに入ったが、ギターが上手く弾けずに逃げ出してしまった。でもぼっちちゃんは自分の努力の才能を認めてくれて、再び結束バンドに誘ってくれた。
この曲は喜多ちゃんが自分を認めてくれたぼっちちゃんへ宛てた曲と考えることができるのです。
いいな 君は みんなから愛されて
「いいや 僕は ずっと一人きりさ」
このセリフは、ぼっちちゃんに憧れの存在と思われている喜多ちゃんの独白とも解釈できます。特別な才能がない自分は一人では何者にもなれない、一人きりだ。
君と集まって星座になれたら
星降る夜 一瞬の願い事
きらめいて ゆらめいて 震えてるシグナル
君と集まって星座になれたら
空見上げて 指を差されるような
つないだ線 解かないで
僕がどんなに眩しくても
でも、人を惹きつけるギターの才能を持ったぼっちちゃんとなら、特別な何かになることができる。だから僕が眩しく見えたとしても、距離をとらないで一緒にいてほしいという喜多ちゃんの願いのようにもとれますよね。
君と集まって星座になれたら
切なる願い 誰かに届いたら
変われるかな 夜の淵を
なぞるような こんな僕でも
ここは、特別な何かが見つけられないまま暗い夜の淵をさまよっている自分でも君となら特別になれるのかな、という心情ですよね。
以上、自分なりに二つの視点から「星座になれたら」を解釈してみました。やっぱりキーになるのは
「いいや 僕は ずっと一人きりさ」
というセリフが誰のものかという点ですよね。私はここに解釈の余地を残していることに、歌詞の深みがあって味わい深い曲だなあと思います。
3 補足
余談ですが、この曲には意味がありそうでなさそうなフレーズが散りばめられているのが少し不思議でした。ですが、以下のように懐かしい曲のタイトルから引用しているのかもしれないと思いました。
「夜の淵」・・・RADWIMPSの楽曲(2019)
「遥か彼方」・・・ASIAN KUNG-FU GENERATIONの曲(2003)
「カルマ」・・・BUMP OF CHICKENの曲(2006)
ぼっち・ざ・ろっく!の原作者はまじあきさんや、「星座になれたら」の作詞提供をしてくださった樋口愛さんは、20代後半~30代前半くらいだと思うので、丁度これらの曲がリリースされた年代が青春時代に重なっていることからきているのではないでしょうか。夜の淵は2019年と最近ですが、この曲は2011年の東日本大震災から8年のタイミングで被災者の方に向けて書かれた曲とのことだったので、一応挙げさせていただきました。
他の曲も見つけた方がいらっしゃいましたら、コメントなど宜しくお願い致します。
それでは。
”出社”について考える
こんばんは、ヒグラシです。
もう年の瀬ですね。
私事ですが今年の12月から働き初めまして、2022年は社会人になって初の年越しだったりします。なので、世の先輩社会人たちほど年末年始休みのありがたみを感じきれてはいませんが、それでも自分の中では貴重な休みだなと感じてます。
働きたくない、出社したくない、もっと休んでいたいというのは人類共通の願いです。
ところで、皆さんは「出社」という言葉について深く考えたことはありますか?ありませんね。どうでもいいですもんね。
私は、最近この言葉について考え始めてしまい、思考の沼に沈んでいます。
日本語とは難しいもので、会社に働きに行くことは「出勤」「出社」と言ったりしますが、会社から仕事を終えて帰ることは「退勤」と言います。
しかし、これらの現代日本語は我々が今まで学校で習ってきた対義語の感覚とは異質で根深い問題を抱えていることが分かります。
「出る」の対義語は「入る」、「退く」の対義語は「進む」です。
なら出勤の対義語は入勤じゃないとおかしいじゃないか。でも入勤なんて単語はないし、仮にあったとしても入勤と出勤なら入勤の方がなんだか仕事を始めるときっぽい。出社の対義語も入社じゃないとおかしい。入社という単語はあるが、これは会社に所属し始めることを言いますよね。「今日付けで入社しました、ヒグラシです!よろしくお願いします!」なんて具合です。
退勤の対義語は進勤なのか?いや進勤ってなんだよ。進んで勤務したいやつがいるわけないだろ。いやいるかもしれないけど。
仕事を辞めて所属していた会社を去ることは「退社」「退職」といいますが、退社は単に一日の仕事を終えて家に帰るときも使う気がします。また、退職の対義語として進職という言葉を使うこともありません。
ルールがなさすぎるだろ!!
ここは日本語の無法地帯なのか?謎は深まるばかりです。
日本語を学んでる外国人発狂しちゃうよ。
最近は技術の進歩とコロナの影響によりリモートワークが普及して、そもそも会社に行かなくても仕事をすることができるようになりましたよね。そうすると会社に行く行かないという概念も今後薄れていくのかもしれません。
結局私の中では、いまだ出社・入社問題(今適当に名付けた)の思考は整理できていませんが、最近の疑問ということで記事をしたためてみました。
それでは皆様、良いお年を。